

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2003-06-27 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
久しぶりに会った友達に誘われて、ふらりと横浜寿町に出掛けてみた。
寿町とは、日雇い労働者の人達が多く暮らす地域。
昔、学生の頃、同じく日雇い労働者の人達が暮らす山谷地区にたまにボランティアに出掛けていた時を思い出し、あれから10年くらいが経過した今、再び訪れてみようかなあという気持ちにふとなったのだった。
20代の前半に見た地区は、いろんな意味でかなり印象的だった。
普段自分が暮らす地域とは、そこに流れる空気そのものが何か違っていて、大阪のあいりん地区へ行った時も、見知らぬガイコクを訪ねたのと同じくらいに衝撃的だったのを、今だに覚えている。
当時ネパールから帰ってきたばっかりだったのだけれど、500円でお腹いっぱい食べられた焼き肉屋さんにしても、2000円で宿泊できる宿で賑わう光景にしても、どこかアジアの風通しの良さのようなものが感じられ、ジンセーにおける様々な問題を抱えた人がたくさんいる地域ながらも、妙なヒトらしさのようなものが漂う場所だなあと感じたのを昨日のことのように思い出す。
寿町で話しかけてきたおじさんも、小指のない手を隠そうともしないまま、「ここにいる人達は、みんなワケありだからなあ」と人なつこい顔で笑った。
手首には痛々しい傷があり、「ヤクザから足を洗おうとして、小指の先をなくした」と語った。
普段映画の中でしか接しない世界が、ここには現実にあるんだなあ。少なくとも、何年か前までは、このおじさんにとって指を詰める世界がまさに自分のものだったんだなあと思ったら、ジンセーという時間の中で各人が視ている世界の多様性を、私はつくづく感じていた。
だから、寿町ではみんな本名を語らない。それぞれがあだ名で呼び合っている。
そんな世界だから、普通の人が近付けないような怖い世界かというと、決してそうでもなかった。
小指のないおじさんの笑顔はとびきり極上のものだったし、私が他愛もないことを一緒に喋っていたおじさんの背中には、可愛らしい小リスがちょろちょろと走り回っていた。
私が思わず手を出すと、リスはおじさんのチョッキの中に逃げ込んだ。
けれど、おじさんがシャツの胸ポケットからヒマワリの種を出すと、リスはまたおじさんの肩に顔を出す。
「おじさん、このリスを背中で飼っているんですか?逃げないんですか?」
と私が尋ねると、おじさんは首をこくりと縦に振った。
どうやら、リスはおじさんの背中以外に行くことは決してないらしい。
寝る時だって、おじさんのチョッキの中。
青いチョッキをリスでぽこっと膨らませて、おじさんはまた寿町を颯爽と歩いていく。
ジンセーはいろいろありすぎて複雑すぎたかもしれないけれど、背中のリスにはそれら全てを払拭するくらいの救いがあった。
いつも途上国へ行っても感じることだけれど、どんなにゲンジツが大変なものであっても、ヒトはこうして必ず生きていくんだなあと思った。
また別のおじさんは、新進気鋭の前衛ゲイジュツ家と言ってもおかしくないほど、ユニークなオブジェを頭の上に乗っけて自転車で寿町を疾走していた。
レアもののキティちゃんやら、生きている金魚などでオブジェを作って、その重たい塔を外出の時は常に頭の上に乗せているというおじさんは、日本でこそ珍しいかもしれないけれど、私が海外に行った時に街角でよく出逢う大道芸人そのものだった。
オブジェおじさんは、全く屈託がない。
私が「金魚もおじさんのおかげでいろんなところを散歩できて楽しいだろうな。ちょっと目を回しているかもしれないけれど」と言うと、「本当はハムスターをここに置いてあげたかったんだけどなあ。結構難しくて……」とおじさんは答えた。
オブジェおじさんは、おじさんなりの夢の世界を楽しんでいる。少なくとも、私にはそう見えた。
三畳一間で、全く先の見えないジンセーを送っている人々が暮らす町。
一泊2100円の看板を掲げた簡易宿泊所が建ち並ぶ町。
一流企業の部長職まで勤めながら、なにかのきっかけで家族も財産も全て失い、本名をひた隠しにして生きる人がいる町。
まるで歩く百科事典かと思われる超一流大学出のインテリな男性が、手首に何本もの傷を入れて今日だけを生きている町。
町全体が、どこか「裏」の香りを発しながらも、私が普段いるらしい「表」の世界と、彼らの世界とは、実はなんの境界線もないように感じた。
昔山谷地区で話を聞いた時にもそうだった。
50代の男性は、「たまたま」「本当に偶発的」にいろんなきっかけが次のきっかけを生み、山谷に住まざるを得なくなった。けれど、再びそこから起きあがり一般生活に戻り、学生の私達と一緒にボランティアをしていた人だった。
彼の話によると、経緯はこうだった。
浅草で不動産屋を営んでいた彼は、どちらかというと、社会で大成功を収めていた部類だった。
会社は順調すぎるくらいに順調で、急成長した。
毎日札束をばらまけるくらいに儲かり、そんな時にたまたま出来心で経理をやっていた女性と浮気をしてしまった。
この世の春を満喫していたというのに、ある日ひょんなことからその浮気が家族にばれた。
奥さんが離婚を申し入れてきた。
自分の中で葛藤を繰り返した揚げ句、浮気した女性との責任を取るために、その離婚の申し出を受け入れた。
そして、その経理をやっていた女性と新しい人生を始めようと思っていた矢先、風向きが変わった。
女性が、会社のお金を着服していたことが発覚。
気付いた時には、大成功をしていた会社はたたまねばならないほどに、資金繰りが悪化していた。
女性は会社のお金を根こそぎ自分の懐に入れて、逃げた。
男性は、木枯らしが吹く冬の浅草で、家族も、会社も、自分の人生も、全てを失い立ち尽くした。
順風満帆だった自分のジンセーが一気に転落の方向に向かったのは、その間たったの二年だったと、彼は言った。
「それからが大変だった。行く場所を失い、それでも生きていかねばと思い、路上で生活を始めた」
最初はやけ酒をあおり、退廃的になっていただけだったけれど、路上の仲間達といろいろ話すうちにこのままではいけないと思い始めたのがさらに二年後。
「山谷の簡易宿泊所に行き、日雇いの仕事を探し始めた」
そこから彼の再起の努力が始まる。
日雇いから正社員登用への道を模索する毎日。
「何が大変だったって、大成功させた会社の社長を自分がやっていたというプライドを、まず自分自身で捨て去るのが、どれほど難しかったか……。人の記憶というのは、華やかだった時代を綿密に刻み込んでしまっていますからね」
山谷で日雇いを始めて三年後、彼は真面目さが買われ、正社員へと登用された。それと同時に、自分の小さなアパートを都内に借りた。
「小さなシアワセが、これほど貴重なものだったかと思いました。社長業をやっていた頃は、そういう感覚が自分の中から完全に麻痺してなくなっていたんでしょうね」
「今こうして、ごく普通に“表”の世界へ復帰してみて思うんですが、あっち側の世界とこっち側の世界とは、明確な境界線ってのはないんですよ。ただそこに違いがあるとすれば、“意識の持ち方”だけかもしれません。自分で自分のことを“カワイソウ”と思ったら、あっちの世界の住人になるんです。自分のことを“カワイソウ”と思い始めた瞬間に、環境までもが本当に“カワイソウ”な状況になっていくもんなんですね。不思議なことですが……」
そう言って笑っていたおじさんの顔は、敗者復活の自信に満ちていた。
私もよく思うことがある。
口癖というのは本当に大事で、口癖は実際に本当になる。
私の知り合いの編集プロダクションの経営者もよく言っている。
「貧乏ヒマ無しと言っていると、本当に貧乏ヒマ無しになっていく。だから、実際は貧乏ヒマ無しでも、今は一時的にお金がどこかへ逃げているだけですと言うようにしている」と。
ここのところ、SARSウィルスがその感染力で世界中を騒がせていたけれど、ネガティブウィルスというのは、SARSウィルスなんかよりも、ずっと感染力が強い。
少しでも自分自身がネガティブウィルスを受容するような意識を持ってしまったが最後、とめどなくネガティブウィルスは自分に近付いてくる、どうもそんな気がする。
高校生の時、それを経験した。
それまでは普通の女子高生をやっていた私は、母が脳卒中で倒れた時、自分で自分を“カワイソウだな”と思った。
「周りのみんなはお母さんの愛情弁当を作ってもらっているのに、それがしてもらえない私は本当にカワイソウ」と。
そして「こんなカワイソウな私を助けてください」と神頼みをしようと、浅草本願寺に行った。
そしたら、翌々日に交通事故に遭った。
その時、本当に神様はひどいと思った。バカヤローだと心の底から思った。
被害妄想がひどくなり、自分で自分のことをカワイソウだと思う度合いもひどくなり、あまり外にも出ずに家に引っ込んでいたら、中学生の時の友達が家に遊びにきた。
私は、自分の同情を買うようなことを、その友達にいろいろ言った。
それはなぜなら、心のどこかで、私がそういうことを言えば、学校の先生も、高校のクラスメートもみんなが一緒に同情してくれる、傷を舐めてくれるということを知っていたからだった。ただ単純な甘えがあったのだ。
そしたら。その中学生の時の友達は、憮然として一言、こう言った。
「ふざけんな。おまえ以外にカワイソウなヤツはごまんといるんだよ」
「住む場所があるだけで幸せじゃねえか。オレなんか、住む場所だってないんだぜ」
母親に捨てられ、父はアル中で病院に入院中。唯一自分を育ててくれていた祖母も先日なくなってしまった彼は、ただ「ふざんけんな」と言い続けた。
その瞬間。私は一気に目が覚めた。初めて、自分で自分が情けないヤツだったと、腹の底から痛感した。
その時を境に、自分で自分をカワイソウと思うことから、遠ざかった。
カワイソウという自分に対する同情を越えて、あざ笑えるくらいになった。
不幸なめにあっていると思っていた自分を客体化して思いっきり笑うのだ。
そしたら状況は好転した。
ネガティブウィルスがそれ以上近寄ってこなくなった。
神頼みをしていた自分は、なんと浅はかだったのか。自分を救うのは、自分しかいない。
それなのに、自分で自分を同情していたら、すべてがそこで止まってしまう。
その一件から、私はどんなに周りの友達にいろんな悩みを聞いても、同情するのだけはやめるようになった。
やり場のない思いを噴出させてあげるのは大切だから、それを言える場だけは作ってあげる。
けれどそこから先は、同情は一切しない。なぜなら、私までもが同情してしまったが最後、フコウな人はもっとフコウになるということに気付いたからだった。
自分がこうなったのは、他人のせい。
会社が悪い。家族が悪い。なになにが悪い。そんな環境に置かれた僕は、カワイソウ。
ただでさえ本人が自分に同情しているのに、私までもが一緒に同情したら、彼は本当にカワイソウになっていくものだから。
同情というのは、その人をより一層カワイソウにすることはあっても、決して建設的な打開策にならない。
一時の癒しになることはあっても、同情は何をも救わないと、私は思う。
寿町を歩きながら、思った。
どんなフコウが身に降り注いでも、そこから一歩引いて、そんな自分をおおいに笑えるくらいの余裕を常に持っていたい、と。
そうすれば悪事はそこで止まる。はず。
どうもそのへんに、生きる極意があるような気がする。
寿町の人々は、都会とは思えないくらいに人なつこかった。
その雰囲気は、どこか私がこの間まで行っていた南米の人々の人なつこさを思い出させた。
普通は一本120円する自販機のジュースが、寿町では100円だった。
仕事がなくてひなたぼっこをしていた年輩のおばさんが、わざわざ買ってきたトマトジュースを私にくれた。
優しいな、と思った。
けれど。私は心のどこを探しても、同情だけはどこにもなかった。
おばさんと他愛のない話をし、忙しそうに動き回るリスを愛で、おじさんのオブジェを観賞させてもらうだけで、十分だった。
そんな私達を、梅雨の合間の太陽がひょっこりと照らし出していた、2003年の6月だった。