

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2003-06-13 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
(前回に続く)
式根島に行ってからというもの、ここしばらく、私の中でのマイブームは“魚類”。
スーパーで切り身になっている魚を買うのではなく、わざわざ電車で二つ隣の駅まで出向き、そこにある魚屋さんで“生きている”“まんまの形の”魚介類を買うようになった。
先日は偶然、その魚屋さんの前を通りかかった。
まるで金魚を飼育するかのように、水に何本もの管が入れられた発砲スチロールの箱の中に、生きた貝類がたくさん入っていた。
その中で、一際目立っていた貝がいた。“ミル貝”だった。
大さじスプーンほどの白い貝殻から、その数倍はあろうかと思われる身が、ぬーんと突き出していた。
あさりやしじみを見て「怖い」と思うことはないけれど、ミル貝は、なんだかその形状が人間に恐怖を与える。
水やら砂を吐き出す口、の部分が、あさりなどと比較して、異常にぶっとく、長い。
活きたあさりを水に入れておくと、そのうち貝殻からぬっと口が出てくるけれど、あさりの場合はその大きさが貝殻の何十分の一。だからまだ上品で、とりあえずこちらが恐怖を感じるほどの代物ではない。
けれど。ミル貝の場合は、おまけ程度にくっついた貝殻から、すりこぎ棒ほどもあるでっかい物体が、ぶよぶよと突き出ている。その形状をよくよく見てしまうと、キェーッと絶叫して卒倒!くらいの迫力を持っている。
神様はどうしてこんなヘンな貝を作ったのか。下手なSF映画よりも、魚屋のみる貝の方が鳥肌が立つ。
さらに一言加えれば、オチンチンにも似た形。ミル貝は、貝、なのに。
じっと凝視するうちに、私は人間として、ヤツと真っ向から勝負せねばという心境に駆られた。
店員さんが声をかけてくる。
「お客さん、ミル貝、美味いよ。重さ、測ってみようかね」
長さ30cmほどもある奇妙な口を持ったみる貝のお値段は、一個で510円だった。
「この貝、このまま輪切りにして刺身にすればいいんですか?」
「そうか、最近の子は貝のさばき方もわからんのか(笑)。教えてやるから、一つ持っていきな」
そこまで言われれば、買ってみよう。私はすりこぎ棒サイズ=510円というところで納得した。
気の良さそうな店の主人が、水中からミル貝を取り上げる。
あまりにも奇妙な物体の表面皮がニョイニョイと収縮をする姿に生き物の神秘を感じ、目が釘付けになった。
次の瞬間。
信じられないことが起こった。
私が購買契約をしたみる貝殿、まな板の上に乗せられた瞬間に、いきなり収縮を始めたのだ。
うろたえたのは、私の方だった。体長、というか口の部分30cmほどの大きさで、それを薄く切って刺身にして食べられる分量を、私は頭の片隅でなんとなく想像していた。
というのに。
1分後にはたったの7cmほど、それこそ腹の足しどころか、ツマミにもならない小ささになってしまった。
私は慌てた。最初からこんな、指の先ほどの小ささだったら、510円も出して買っていなかった。
たかが貝相手に、私は思いっきり詐欺にあったような気分になった。
ミル貝はまるで私を馬鹿にするかのように、口の先端にくっついたヘソのようなところからどんどん水を吐き出す。萎縮して小さくなった、とでも言えばいいのだろうか。
でも買うって言ってしまったものを、今更撤回はできない。
おそるおそるため息混じりで、魚屋さんに言った。
「あの……ミル貝って随分大きさが変化する貝なんですね……。こんなに小さくなってしまうものと知らなくて」
「この貝は、ほとんど水太りででっかく見えているだけだからなあ」
ついさっきまで、30cmで510円。けど今は7cmになってしまったから120円にして下さい。
なんてとても言えなかった。
生きている、または生き物を相手にしているって、こういうことなんだよなあ……。
魚屋の御主人に教えてもらった通りに、表面収縮を続けるミル貝殿をさばきながら、しみじみと思った。
前に活きホタテを買ってきた時にもそうだった。
魚屋さんに並べられている時点で、ホタテはこれから人間に食べられると覚悟しているものだと思っていたのだけれど、そのまま火にかけた瞬間、私はホタテの貝殻に思いっきり指を挟まれた。
ホタテは『生きたい』という生命本能で、人間である私に最後まで抵抗を続けていた。
今回のミル貝もそうだった。私が刺身用に包丁を入れても入れても、身を固くして、抵抗をしているようだった。
魚屋の御主人に言われた通り、切り身を水に浸けておいたら、収縮し続けた身がくるくると弧を描いた。
こんなに死ぬのを嫌がっている貝に、私は随分と残酷なことをしているなあ……。
そう思ったら同時に、なんとも言えない愛情が湧き、私にできることは、一生懸命、精一杯おいしく食べてあげることだという気持ちに変わった。
日頃の御飯の何倍もよくよく噛んで、一生懸命食べてあげた。
自然な食物連鎖の中で、自分より弱いものの命をもらうとき、唯一しなければならないのは、犠牲になった生き物の栄養をしっかり自分のものにしてあげること。
それは、スーパーに売られている命のない切り身ばかりを機械的に食べ続けていたら、わからないことだった。
生きたミル貝は、確固たる絶対値段が付けられないほどに、身の形を七変化させていた。
本当の自然はいつも、不定形、不規則、そして不確実。
でも。曖昧な部分をほどよく含みながらも、総体として絶妙なバランスを取っている。
だから凄い。人間が永遠に計算しつくせない不確定値を持ちながら、雄大なバイオリズムの中で動いている。
式根島の地鉈温泉もそうだった。

これが伊豆・式根島で評判の大自然的“地鉈温泉”
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温泉のところに看板があった。
『ここに湧く温泉は、湯船の“どれか”が適温になっているはずなので、湯温を確認してお入り下さい』
江戸時代から伝わる自然温泉には、ほとんど人の手が入っていない。
ちょうど海水との際に、いくつもの穴ぼこが空いていて、源泉が湧いている。
源泉自体はとても高温なのだけれど、それが潮の満ち引きと共に、うまく冷たい海水と混じり合い、ヒトが入れる湯温の湯船が時間毎にどれか一つはできあがっているという、まさに文明の利器必要なしの温泉。
その適温になっている湯船、は、潮の満ち引きで相当湯温が変わってくるので、時間帯によって、同じ湯船でもぬるくて入れなかったり、もしくは火傷をするくらい高温になったりと、変化する。
まさに自然の流れを読みとる自分のニンゲン力が試されるかのようで、とても興味をそそられた。
温泉と言えば、ただ人間がのんびりしにいくために、いつも適温いつも準備万端で待っていてくれそうな気がするけれど、自然をコントロールする機器に恵まれていない江戸時代にも使われていた温泉は、人間と自然のいい意味での闘いが待っている。
自然を読むニンゲン力が勝っていれば、気持ちいい温泉に入れる。
けれど劣っていれば、火傷をするか、ぬるま湯で凍えるか。
自然の温泉は、たかが温泉かもしれないけれど、やっぱり生きている。だから時間帯によって“動いている”。
一度そんな温泉の醍醐味を味わったら、きちんと温度管理された受け身的温泉は、どことなく淋しい。
やっぱりこちらのニンゲン力を高めるためにも、柱で爪を研ぎ続けるネコのように、常に自然と対峙して、自分の本能を尖らせておかなくては、人間の生きる力そのものが危機に陥ると、私は思う。
だいぶ前、金沢の郊外をガイドブックの仕事で訪ねた時、面白いことがあった。
最近のガイドブック制作というのは、取材を効率的、合理的に行うために、あらかじめ用意されたデータシートの穴埋めをしていくという形で仕事が進められる。
たいてい都市の場合は、取材相手もそのこちらの方法を十分承知だから、その空白部分にあった答えを既に用意してくれている。
けれど。なんといっても、私が興味をそそられたのは、郊外のとある郷土料理店を取材した時だった。
まずお店の御主人に、お決まり通り“開店・閉店時間”を聞いた。
すると御主人は困った顔をして、こう言った。
「そりゃ、その日によって仕入れ時間も、こっちの体調も微妙に違うから、ワシが店を開けた時が開店時間じゃ」
……ご、ごもっとも。
けれど。どのガイドブックを見たって、開店時間10時〜17時などの羅列がしてある中に、“ワシが店を開けた時から閉める時まで”なんてデータが書かれている本はない。
ガイドブック仕事引き受け人の私としては、非常に困った。
けれど、個人の私としては、なんだかとても愉快な気分になった。
「で、次に、こちらのお店のオススメ料理をお聞きしたいんですけれど……」
私がテーブルの上に置かれていたメニューを手に取り、どれですか?と訪ねたら、御主人はこう宣った。
「一番美味いもんは、メニューに載っとらん」
「?」
「だって、そうだろ?裏山で獲れるその時の旬は、その時にならないとわからんのだ。つまり猟師がうちに熊の肉を持ってきた時には、それが一番美味い。それがウサギの肉になる時もある。そんなもん、予定はたたん。誰にもわかりゃせん。だからメニューに載っとる料理は、みんなどちらかというと、まずいもんなんじゃ」
それを聞いて、私は思わずぷぷぷぷと笑ってしまった。
オススメのメニューはメニューにはなく、オススメしないメニューがメニュー表になっている、なんて。
正直な御主人だなあ……。人柄に私はかなり惚れてしまった。
けれど、問題はそこからだった。
皮肉にも、そんな御主人の正直なデータは、ガイドブックのデータシート欄のどこにも当てはまらなかった。
個人的には御主人に惚れてしまったのに、仕事人的には辛い、の一言だった。

空だって、雲の描く絵は一刻一秒と同じ風景ということがない。
時々刻々と“動いて”いく
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世界中がどんなにデジタルデジタルと騒いだとしても、やっぱりデジタルというのは、アナログ世界をより分かり易くするための手段でしかないんだよなあ……というのが、いつも思うこと。
生き物達で成り立っている世界がある以上、生きている世界というのは、アナログでしかあり得ない。
「定率」「定刻」「定量」など“定”が付くものが当たり前のようになってしまった私達の世界だけれど、ミル貝も温泉も郷土料理屋の御主人も、“定”の枠をはみ出している。
そんなものだからこそ、私はステキだなあと思うのだ。
なぜって、そういうものがたくさんこの世にないと、つまらないもの、ね。
式根島への探訪から始まった前回からの物語。
ヒトの作った“定ナントカ”をぶっ壊してくれる生き物達のアナログ的営みにバンザイ!