

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2003-05-30 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
今朝、パラパラと日経新聞をめくっていたら、知人からよく話を聞かされていた上智大学の名誉教授デーケン博士のインタビューが載っていた。
デーケン博士は、死生学という、日本ではおよそ受け入れられにくい哲学の分野で、講義を行ってきた人。
一言で言えば、死を直視することで、生を充実させていこうとする考え方を広めた人だった。

ペルーのナスカ地上絵近くにある、墓場、にて。
写真で見るとグロテスクだけれど、実際に見ると、なんだかひょうきんにさえ見える。
こうなる前に、やりたいことはやらなくちゃ、損、損!
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私は記事を読みながら、自分の今の活動の原点となっているインドネシアでの体験を、しみじみと思い返していた。
あれも、今思えば、一つの体験的死生学だったのだなあ……と。
よく、「あなたはどういう高校生でしたか?」と聞かれることがある。
カッコイイ男の子を追いかけ、流行りの洋服をバーゲンで買い、アイスクリームを食べ歩きしながら家に帰る、ごくごく普通の女子高生だった。
特に不満もなく、特に困った問題もなく、それこそ漫然と生きていた、と言った方が正しいかもしれない。
でっかい目標があるわけでもなく、自分が好きなものが何かもよくわからないまま、要するに「テキトー」に時間が過ぎるのを待っていた、という感じだった。
新聞で交通事故やいろいろな事件の記事を見ても、どこか人ごと。
心のどこかで、ジンセーなんてこのまんま永久に続いていくんだなあと思い込み、漠然とした日常につまらなささえ感じていた。すっかり油断していた。
そんなある日。母親が脳卒中で倒れた。
昨日までは何事も問題なく回っていた日常が、ある日を境に激変した。
つい24時間前まで、自分のことを娘だと思って有り余るほどの愛情を注いでくれていたその人が、全く自分のことを認識しなくなった。
これは私にとって、翌日のお弁当を作ってもらえない、どこの騒ぎじゃなかった。
私を見ても、「どこの誰?」といった感じで、ベッドに横たわるのみ。それまで、当たり前のように私と母の間に横たわっていた愛情という絆は、その日を境に信じがたいほどにプツリと途絶えてしまったのだった。
永遠にそこにアルと思っていたことは、あっけなくナクナッタ。
それは、脳卒中というたった数分間の出来事のことだった。
高校生だった私は、そのコトの変貌ぶりにうろたえ、もがきあがいた揚げ句、冷めた。
今思えば、それは自分で自分の気持ちを抑えるためにそうするしかなかったんだろうけれど、とにかく冷めた。
ヒトの命なんて、そんなもんなんだ、と。
自分が信じているものなんて、どうしようもなく意味のないものだったんだ、と。
自分が生きている意味を真剣に考え始めるようになったのは、その頃からだったように記憶している。
なんのために、自分が生きているのか。
今更そんなことを聞きたくないし、それより考える時間もないと思っているオトナは多いことと思う。
ヒトは私の母のようにあんなにあっけなく死んでしまうものなのに、なんで必死に勉強して受験をして、なんで必死に将来の職業を考えなければならないのか、当時の私は全くよくわからなくなった。
どんな努力をしても、結局ヒトに待っているのは死という結末だけなのに、それでもいろんなことに頑張らなければならない意味なんて、どこにあるんだろうと思い始めてしまったのだ。
今思いだしてみても、あの頃が一番苦い思春期だった。二度と戻りたくない時期が、ちょうどその頃。
学校の先生がどんなに口を酸っぱくして受験勉強をしろと言っても、私は全くやる気がなくなった。
友達がどんなに洋服のバーゲンのことを言ってきても、全く興味が湧かなくなってしまった。
言葉を換えて言えば、母の病は、自分が何のために生きているか、その意味を正面から考えるきっかけを作ってくれた出来事だった。
ヒトはどうせいずれ死ぬのに、今生きているのは、なぜなのか?
なんだか訳のわからないモヤモヤを気持ちの中に抱えながら、周りのオトナにその質問をした。
けれど、誰もそれに真正面からは答えてはくれなかった。
図書室にこもって本を読んだ。
とても役に立った本はあったけれど、それでも自分自身の明確な答えのようなものはわからなかった。
私はまた、かなり年のいった人にそれを聞いた。
そしたら「とりあえず、御飯を食べなさい」と言われた。
今になれば、彼がなぜそういう台詞を言ったのか意味がわかるのだけれど、当時は自分のマジメな話をはぐらかされたようで、私の中にあったモヤモヤは余計に増大した。
何がしたいのかもよくわからず、将来をどういう風に描いていいかもわからず、とりあえず大学に入学した。
心の中にわだかまるモヤモヤをとりあえず発散させようと、サークル活動に没頭することにした。
その頃、母は植物人間になっていた。
私はなるべくそういう現実から逃げたくて、いろいろな理由を並べ立てては家に帰るのを遠ざけた。
そんな時。ふらりと立ち寄った図書館で、民族学の本を読んでいた。
そこには、牛やらブタやらを殺して、お葬式で大宴会をするインドネシア・トラジャ族の人々の話が載っていた。
そしてそこには、現地の人は、お葬式で飲めや歌えやの大騒ぎで、“明るく”死者を送り出すと書いてあった。
近親者が死んだからと言って、哀しんではいけない。
哀しむのは、逆に死者に対して失礼で、気持ちよく爽やかに送り出してあげることこそが、生きている人達がやらなきゃいけないことなんだ、と彼らは考えているからだ、と。
なんだか私は気持ちに、急に一筋の明かりが差してきたように感じた。
植物人間の母と対面するのは、苦しいことだった。
しかも。どうも日本の風土では、死をタブー視する傾向があるから、その手のことを表立って周りの人に喋ることは憚られた。当の私が“明るく”その話題をしようと思っても、周囲の方がそれを必要以上に気にして、話題を避けるので、それに比例して気持ちが沈んでいった。私自身は気持ちの行き場がなくなっていたのかもしれない。
そんな時に見た一つの記事。
死に行く人を、アカルク、オメデトウと言って送り出してあげる人々のお話。
強く印象に残った。
そうだ、暗くなる必要なんて、なかったんだなあ。
私も、死に行く母から逃げずに、じっと前向きに見ていてあげようと、その日に思った。
ひょんなことからインドネシアに行くことになり、忘れられずにいたトラジャ族の村を訪ねてみることにした。
その衝撃は本の写真で見るよりも、凄かった。
お葬式なのに。飲めや歌えやの大宴会。そして人々は死者に対して“おめでとう”。
“次の世界もまた、がんばってね〜。だからカンパーイ!!”
多感な19才だった私は、腰を抜かしそうになった。
彼らの発想は、死は暗いもの、忌わしいもの、だからなるべく避けて通ろうとするニホンの発想の逆にあった。
そして、もう一つ。私が抱えていたモヤモヤを打破するきっかけもここにあった。
8才ほどの少年が、私を洞窟に連れて行った。
彼は「おじいちゃんに会いに行く」と言って、私を引っ張っていった。
そこにあったのは……シャレコウベの山。
ガイコツになったみんなが私達を見て笑っていた。
少年は、その中の一つを指さして、「これ、うちのジイちゃん」と、あっけらかんとして言った。
そして、少年は、そのちょっぴり小さめのガイコツを撫でなでしたのだった。
「お姉ちゃんも、うちのジイちゃんに挨拶してくれよ」
彼はそう言って、私の手をジイちゃんのシャレコウベに持っていった。
その時。私は全身に電流が走るような感覚に襲われた。
(これは、そう遠くない自分の姿だ……。いずれは自分もこうなるんだ)
同時に。思春期に抱えていたモヤモヤが突然全部、吹っ飛んだ。
なんのために、自分が生きているのか。
ヒトはどうせいずれ死ぬのに、今生きているのは、なぜなのか?
答えのすべてが、そこにあった気がした。
ヒトはいずれ死ぬから、今生きている。
ヒトは死ぬために、今を生きているだけ、なんだ。それだけが理由なんだ。
なんて、当たり前のこと。文字ではイヤというほどわかっていたつもりだったのに、ガイコツと対面するまで、頭でっかちになっていた私は実感としてわかっていなかったのだ。
ジンセー19年目にして初めて、それを知った瞬間。
気持ちを固めていた鎧兜が全部、ボロボロと音をたてて崩れ去っていく、そんな感じだった。
その時まで、漫然と、漠然と、ただ意味のなく過ぎ去っていた時間というシロモノが、とてつもなく貴重だったんだということに初めて、気付いた時。
できる限り、可能な限り、自分のやりたいことを生きている間に、やり抜こう、と決心した。
この地球でできることは、今のたった一回の自分の人生限り。
死の世界に行ってしまった少年のジイちゃんというガイコツに出会えて、本当によかったと思った。
とめどなく続く日常の中にいると、自分の時間が有限だということをすっかり忘れてしまう。
今日も明日も、このつまらない毎日が続くのかと思い、ただ惰性で時間を過ごしてしまう。
少なくとも。
私が思う限り、ヒトにとって生きていく上で一番大切なこのことは、学校では教わらなかった。
理科や算数、国語の知識というジンセーの上塗りのところは、頭から溢れそうになるくらい教わったのに、その根っことなる、ヒトの生きている意味は、教科書のどこにも書いてなかった。
皮肉にも、私がそれを教えられたのは、発展途上と言われる国の一村。
私が出会った少年は、理科や算数、国語はできないのかもしれないけれど、根っこのところのヒトの生きる意味を肌で知っているという点では、私の何倍も何百倍も、凄いと思った。
きっと少年は、ジイちゃんのような姿になるまで、なんで生きてるのか?なんて考えることなく、生を全うする。
私は19才だというのに、8才の少年でもわかっているそんなことを知らなかったのは、本当に恥ずかしかった。
あの日を最後に、モヤモヤはどこかへ行ってしまった。
“生きる力”はその対極にある“死”と向き合って、初めて培われるもの。
死ぬために生きる。
死を直視しなければ、きっと生きている意味なんて、今だにわからなかったろうと思う。
二日か三日に一度は、私は自分が死ぬ時のことを想像しながら生きている。
と、友達に言ったら、開高健は毎日死ぬことを考えながら生きていたらしい、と言っていた。
社会が成熟してくると、一年先、二年先、もしくは50年先を予測しながら生きていくようになっていくらしいけれど、私はそれはどうかな?と思う時がよくある。
私の母のように、激変はある日突然訪れる。
だから、本当に大切なのは、あるかないかわからない1年先、2年先を勝手に想定して生きるよりも、今、もしくは今日を精一杯自分が納得がいくようにやっていることなんだと思う。
結局。1年先、2年先は、精一杯の“今日”が積み重なってこその、未来なんだ、と思う。
明日があると思うな。これは私がいつも自分に言っていること。
仕事の予定は2004年まで入っているけれど……。
いつやってくるか全くわからない死に向かって、私は今という瞬間を満足がいくように生きていたいとよく思う。
たまたま今朝、目に入ったデーケン博士の死生学についてのインタビュー。
博士の言わんとしていることは、こういうことなんじゃないかしら……。
これをいいきっかけに、博士の著書を読んでみようかな。