

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2002-12-13 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
やっとペルーの首都・リマに到着した。
しばらくずっと砂漠地帯が続いたパンアメリカンハイウェイでは、人を見つければうれしくて飛び上がりそうなくらいの人の少なさだったというのに、リマに近付いた瞬間、どこを見ても人が埋め尽くしているくらいに人口密度が上がった。

左:カイサおばさん宅の庭で、番犬キャラとお手伝いさんのローザと。
右:一番左がカイサおばあちゃん。その右側が旅を共にしているタケちゃん。
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私達の南米縦断バスは、ホテルの予約などを事前にしているわけではないので、町に着くとまず宿探しから始める。同じ道を何度も走っていれば顔馴染みの宿ができてくるのだけれど、今回、南米縦断は初めてとあって、旅の途上で出会った人からの情報を頼りに、住所だけを持ってその場所を探し当てなければならない。
今回の宿はちょっと楽しみだった。
というのも私達の運転手ステファンが、ドイツ人のおばあさんがやっている秘密の隠れ家のようなところだよと言っていたからだった。
紙切れに書かれた住所のところに到着した。
けれど、ホテルと書かれた看板は出ていない。
名前もない。
あるのは唯一、カイサおばあちゃんと書かれた名札だけだった。
本当にここがホテル? 周りは豪邸が並ぶ住宅街。
南米ペルーの一般的なイメージからほど遠い、日本で言えば東京広尾のようなところだった。
ベルを押す。すると頑丈な門扉を開けて、82才になるカイサおばあちゃんが顔を出した。
新市街ミラフローレスにあるサンアントニオ地区。
50年前に旦那さんと共にドイツからペルーに移り住んだというカイサおばあちゃんは、35年前に自宅を改造し、この秘密の宿を始めた。
やってくるお客さんは、知り合いか知り合いの紹介があった人だけ。
今回私達は、ステファンの友達の紹介で、この秘密のカイサおばあちゃん宅ホテルに初めての日本人としてお邪魔することになった。
日本でもその地区地区によって、暮らす人の層が違うけれど、ここペルーのリマは、道一本隔てて掘っ建て小屋に暮らす層とプール付きの家に暮らす層とが隣り合わせになっている。
カイサおばあちゃんは、エンジニアだったドイツ人の旦那さんと二人、ここで会社を初め、その成功した財をもってこの秘密の宿を作ったのだそう。
15畳ほどはありそうな広い部屋はテラス付き。さらに 朝食が付いて一人15ドル(約1700円)。
今まで南米縦断バスをスタートさせてから、例えホテルにいても部屋を出る時には荷物にきちんと鍵をかける、夜寝る時にもお財布をその辺に放っておかないという習慣が身についていた私にとっては、各部屋に鍵がついていないという我が家のような宿は、なんだか拍子抜けしてしまうほど、中がほのぼのしていた。
庭には小さなプールと、手入れの行き届いた芝生があり、ちょっとしたパラダイスだった。
南米の高級住宅街はお決まりのようにみな、体の大きな番犬を飼っている。
ここカイサおばあちゃん宅にいた犬は、体長が私と同じくらいはあるでっかいボクサー種。
名前はキャラ。年齢1才。性別はメス。
これまで南米であまり怖い顔の犬を見てこなかった私は、彼の鋭く大きな牙と、眉間に皺を寄せいつも何かを睨みつけているような表情、そして常に怒り心頭に発しているかのような表情に、撫でようと思って出した手もつい腰が引けて引っ込めてしまうほど。犬に対してコワイ!と思ったのは久しぶりだった。
こんな顔で重たい体で飛びかかってこられたら、さすがのドロボウさんも近寄ることができないだろうな……と思っていたら、家の中で放し飼いにされた彼が各部屋を訪ねてきた。
相変わらず猛烈に怖い顔をして、部屋にあるものを物色している。
ちなみに私の旅の仲間達は、ここ二三日アンデスの山の中にいたので、ちょっぴり洗濯ものが溜まっていた。
ちょうどメンバーの一人セイさんは、洗い物をカバンから出して整理していたところだった。
私も、とりあえずここの三泊する限りは、ドロボウと思われないようにギャングのような顔をした彼女と仲良くしておく必要がある。普通だったら即座に頭を撫でるところなのだけれど、立派な牙がある顔近くはあまりにも怖いので、恐る恐る手を出してお尻を軽く触れた。
すると、キャラちゃん。ギャングの親分のような顔を全く変えないまま、飛びかかってきた。
最初は襲われたのかと思ったのだけれど、大きな体に似合わないテニスボールのような尻尾が左右に揺れている。あんな怖い顔をしていながら、どうやら彼女、甘えん坊らしい。
でっかい番犬キャラの下敷きになりながら、私はちょっぴり安心した。
同じ場所に何日か滞在するということは、そこにいる犬の性格まで知ることができてちょっぴり楽しい。
さて、私がギャングの親分というあだ名をつけたキャラは、どうやら臭いものが好きらしいという趣向がはっきりしてきた。
ちょっとでも鎖をはずされるとすぐに、私達の部屋に入ってきて、何か臭いものはないかと物色を始めるのだ。
ある時、仲間の一人が何日も履き古した穴ぼこだらけの靴下をゴミ箱に捨てておいた。
するとそのゴミ箱にでっかい頭を突っ込んでしまったキャラは、頭が抜けなくなって、狂ったようにカイサおばあちゃんのもとへ走る。ゴミ箱をはずしてもらうと、安心したかのように嬉しそうに靴下をくわえてどこかへ走り去った。
またある時は、リビングで新聞を読んでくつろいでいるステファンのところに、巨大な体をあずけながら、ステファンの足をでっかい舌で舐め始めた。ステファンがくすぐったさに悲鳴をあげてもまだ舐め惚けている。
カイサおばさん宅にいる三人のお手伝いさんがそれをたしなめ始めた頃には、ステファンの足はキャラの唾液でぐちゃぐちゃになるくらい、キャラはステファンの足が好きになってしまったらしかった。
そしてまたある時。キャラはカイサおばあちゃんの部屋へ飛び込み、靴下をくわえて出てきた。
私がダメだよと言えば言うほど、キャラはうれしそうにそのおばあちゃんの靴下をしゃぶっている。
最初は靴下とじゃれているだけなのかなあと思って見ていたら、真剣にかみ始めた。
よく日本で、肉の味のする骨モドキをかじっている犬はみたことがあるけれど、両手で靴下を押さえながらそれをかむ犬を見たのは初めてのこと。
ヨレヨレになった靴下を、これでもかこれでもかと噛み続け、私は巨体のキャラに反抗もできずにただそれを見守るだけ。すると……キャラちゃん、目の玉をぐるぐると動かしながら、カイサおばあちゃんの青い靴下をごくりと呑み込んでしまったのだ。
びっくりしたのは私の方。
靴下を食べる犬というのにお目にかかったのは、生まれて初めてのこと。
いや、まさか食べちゃったわけはなかろう、口の中でしゃぶっているんだろうと思って、顔をつかみ、でっかい口を力を込めて開くと、やっぱり靴下はもうなかった。
本当に食べちゃったんだ!
私がコラッと叫ぶと、キャラはまたおばあちゃんの部屋へ潜入し、残ったもう一個の靴下をくわえて出てきた。
ああ……また食べちゃう!私もカイサおばあちゃんにお世話になっている以上、そこにいる番犬が靴下を食べてお腹を壊すのを黙ってみていられるはずもない。
「カイサおばあちゃん!おばあちゃん!キャラが靴下を食べてゲップをしているよ!」
82才のおばあちゃんが、1才の巨体番犬キャラを追いかける。
キャラはこっちがそういう態度を見せると、取り上げられる前に食べてしまおうと必死になる。
普通の宿だったら、携帯している金品を盗まれないように気をつけるというのに、私はカイサおばあちゃんの宿で、金品はさておき、たった三組しか持ってきていない靴下を食べられまいと必死にならなければならなかった。
カイサおばあちゃんは、35年間の宿経営の中で、ここに泊まった人々が書き綴ったサイン帳4冊を引っ張り出して見せてくれた。
それぞれに写真が貼ってあり、ページをめくる度におばあちゃんがゆっくりゆっくりと歳を重ねているのがわかる。中に褐色の肌をした小さな子どもの写真が貼ってあった。
「この子はね、ペルー人なんだけれど、お母さんがお父さんを殺しちゃって孤児になっちゃったから、私のドイツの友人が今育てているのよ。そういう子ども達を私、20人ほど、面倒を見ているの」
歩くのがやっとのおばあちゃんは、髪をお手伝いさんにとかしてもらいながら、キャラに足をペロペロ舐められながら、どこか幸せそう。
「私は死ぬまで、現役よ」
64才になる旅の仲間タケちゃんを、「娘みたいに可愛いわ!」と言いながら抱きしめている。
外から見たら誰にもわからないようになっている秘密の宿。
来年か再来年、もしまた南米に来ることがあったら、カイサおばあちゃんのにこやかな笑顔と、ギャングの親分のような顔をしている靴下フリークのキャラを必ず見に来るぞと、そっと心に誓ったのだった。