

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2002-07-05 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
昼下がりはシエスタの時間。旧宗主国イタリアに倣って根付いた習慣に、アスマラの街はギラギラと照りつける太陽から身を隠すように、正午から数時間静まり返る。

戦争を終えた街には、独特の柔らかな空気がある。
石ころ遊びをしていた少女のところにふらりと現れたおじいさんは、目を細めたまましばらくそれを眺めていた。
トラックが来るまで、ただ待ちの姿勢に徹するのみ。暇つぶしにカフェに出掛けた。植民地時代に受けた教育そのままに、白いエプロンを着た従業員達がてきぱきと動き回ってよく働いている。現代ポップアートのような愛らしい字体のティグリナ語で書かれたメニューの脇にはスパゲッティの絵。エスプレッソを飲み終えた褐色の美女達が白い歯を見せてチャオ!と軽く会釈をし席を立っていく。
ミキサーから甘い匂いを放つパパイヤジュースを注文した。生の果汁はねっとりと濃く甘い。
椰子の街路樹が続くメインストリート。つい数年前まで続いていた戦争の影響で手足を失った人が鉄パイプむき出しの車椅子で目の前を通り過ぎていく。
遠くから私の姿を見つけてふらふらと歩いてきた貧相な老爺が、隣りに座った。なんの注文もせずに堂々と腰掛けている老爺を、ウェイターが迷惑そうに現地語で怒鳴りつけた。道に置いてある椅子に座ってどうしていけないんだ!と、老爺は白く濁った眼球をちぐはぐに動かしながら居直っている。
「これに興味あるか?買ってくれんかな?」
老爺はポケットから硬貨を取り出した。植民地時代の古いコインが数枚、鈍い光を放っている。
「痛い過去には興味ない」
私が首を横に振ると、たいした未練もなさそうに、あっさりと老爺は重そうな硬貨を引っ込めた。ウェイターの怒鳴り声はまだこちらのテーブルに飛んでくる。椅子に座る権利を主張する老爺のすり切れたシャツと皺だらけの顔に一抹の愛着を感じ、私は紅茶をもう一杯注文した。訛りだらけの英語でなかなか会話ははかどらない。わかったのは、内戦の始まったスーダンから職を求めて逃げてきた難民だってことと、複数の妻との間に25人の子供がいるってこと。
ここエリトリアは1992年にエチオピアから独立し、その後隣国のスーダンやソマリアからたくさんの難民が流れ込んでくるようになった。殊に94年から内戦が激化したスーダンからは、毎日数人、多い日には数百人が国境を越えて着のみ着のままで逃げてくる。老爺もその一人だった。
一頻り喋り終わった老爺は、遠くを眺めて座っていた。
「あっ息子だ」
突然老爺が道の向こう側に人影を発見した。チョコレート・ブラックの皮膚が力強さを感じさせる長身の青年は、奇妙なパスポートを握りしめて走ってきた。
「俺達の国ではたとえ血がつながっていなくても、親父とか息子とか呼び合うんだ」
息を落ち着かせながら、長身の青年は言った。
眼光の鋭さが感じさせるカリスマ性。鍛え抜かれた体から漂う健康美。流暢な英語にピンク色の舌がまるで別の生き物のようになめらかに動く。私が不思議そうに顔を覗き込むと、スティーブは目元を緩ませほんの少し照れ笑いをしてみせた。
「おとといからマラリアに罹って具合悪いんだけどさ、今日は世界中どこへでも行けるパスポートが届くっていうんで無理して街に出てきた」
大切そうに差し出したのは一見して合法的なものではないとわかるようなパスポート。World Service Authority という人権保護を目的とした民間団体が独自に発行した旅券だった。中味をパラパラとめくると、世界中の主な言語で注意書きがある。
【あなたはどこの国にも自由に行けます。行ける権利を持っています。もし入国の際このパスポートでトラブルがあったら自分の人権を係官に訴えなさい。それでも無理な場合にはそのトラブルのリポートを我が団体に報告して下さい】
もちろん実際的な効力はなにもあるはずがない。黙って聞いている私に、彼はとくとくと話し続ける。近日中にこれを持って米国大使館にビザ申請に行こうと思っている、と。ささやかな希望を壊すわけにもいかず、私は中途半端な相づちを打ちながら、発色豊かな舌に関心しながら彼を眺めていた。
「俺は今でも祖国スーダンを愛しているというのに、国はパスポートを俺から取り上げた。……俺には自分の存在を証明してくれるようなものは何も持っていないんだ。このパスポートは俺の人間の権利の唯一の証明であり、俺が生きている権利の証明なんだ」
ウェイターは相変わらず新しくテーブルに加わったスーダン人難民を苦々しく見つめている。陸でつながっているからこそ、流れ入ってくる違う文化を持ったモノと人がここでも小さな摩擦を起こし、軋み音を上げているようだった。
とりとめもない話をした後、難民キャンプに戻ると言って彼は席を立った。
「私もキャンプに行ってみてもいい?」
出会いは単なる好奇心に始まった。
(次回に続く)