

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2002-06-14 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
放牧を終え、テントに戻ったその瞬間から、ムラハは貞淑な女性に戻っていた。ベドウィンの世界というのは、よっぽど父の存在が絶対なのだろう。ついさきほどまで、放牧にでかけていた時には、鉄パイプで作った笛を鳴らし、鬼ごっこに高じ、途中で出会った友達にタバコまでもらって吸いながら、まるで別人のようにキャッキャッとはしゃいでいた彼女の姿は、もうそこにはなかった。

シュレイマンのテントの住所は、「岩山の陰」。
シュレイマンは数キロ離れた近所の人と「お喋り」をする時、この岩山に登り、見晴らし台のように利用している。
父・シュレイマンの指示に従い、山羊の乳を搾り始めた。私がそっと近付くと、ムラハは私と目も合わせずに、一匹の山羊とアルミのバケツを黙って差し出した。
腹の下を触った。温かくて柔らかい。ぐっと手に力を入れて握っても、私の搾り方が下手なせいか山羊は及び腰になるばかり。シュレイマンが、指の一本一本を波打たせてうねらすように搾るんだと教えてくれると、勢いよくミルクが溢れ出た。
大きなテントには部屋が二つ。真ん中が仕切られていてそれを中心に、マットレスが置いてあるいわゆる「居間」と、火をくべる場所がある「台所」に分かれている。山羊の毛を紡いで作られた黒いテントはずしりと重く、風を全く通さない。日も暮れて、ぐんぐん気温は下がってきたというのに、テントの中は昼間の温かさが保たれたままだった。
町で出会ったベドウィン族の青年が言っていたことを思い出した。
「俺たちは何でも自分達の手で作れる。山羊さえいればその場でテントだって作ってみせる。楽器だって自分たちで作れるし、食料だって自分たちで自給している。すべてを自分の手で学び取ることができる。だから俺たちにとってお金は何物でもない。なぜってそれがなくたって、生きていけるのだから」
「リッチマインド、豊かな精神にこそ意味があると俺たちは考える。それは【知恵】なんだ。例えば、そこに本があったとする。本の中には【知識】が並んでいる。けれど、もっと重要なのは、それを読む前に、その中に書かれていることを体験として会得しているかどうかってこと。つまり、これは大切でこれは大切じゃないってかぎわけられる勘のようなものが備わっていれば、どんな環境だって人は生きていける。俺たちベドウィンがそれを証明している」
あまりにも堪能な英語で話すので、私は彼の住所が聞きたいと思い、紙を渡したら彼は首を横に振った。その時に初めて、利発そうな顔をした彼が文盲であることを知った。
ベドウィン族は文盲の人が結構多い。それでも。彼らは厳しい環境を生き抜いている。これからもきっと生き抜く。
それは長年培われた自然と対峙するための伝統的な【知恵】が、体の中に備わっているからなんだろうと思った。
シュレイマンのテントにあるのは、タンクとやかん、カップにフライパンとマットレスだけ。それも町で買ったのではなく、山羊の毛やミルクと交換して得たものだという。
21世紀に入った同じ地球の同じ瞬間に、シナイ半島の砂漠で進行するもう一つの世界。
テントの中ではムラハが一生懸命、夕食を作っていた。
床のない「台所」は、砂が絨毯代わり。台所スペースでも、私と二人っきりの時のムラハはきゃっきゃっとはしゃぎ声をあげているというのに、隣の「居間」からシュレイマンがのぞくと、はしゃいでいたのをピタッとやめ、急に真面目な顔になって、別人のように大人しくなる。それがなんとも可笑しかった。
メニューは、ついさっき搾ったばかりの山羊のミルクに、町の畑から運んできたイモとカリフラワーと玉ねぎを入れて煮込んだスープ。それに小麦を水で溶いて焼いたパン。薄いパンをちぎってスプーン代わりにスープをすくう。
夕食時、親戚の人と称する男性がテントに訪ねてきた。
喋ること、喋ること。これもまた、道具のない大人の遊びなのだろう。
「これでもベドウィンの生活はかなり変わったよ。昔の人はラクダのミルクを飲んで体を鍛えていたけれど、今は山羊のミルクに甘んじているもんなあ。本当に我々も弱くなった」
世界中どこでも変わらない年長者の台詞を聞きながら、またムラハが縮こまる。
用を足しに外に出た。こねた粘土をきゅっとひねったような岩山が、満点の星空に照らし出され、まるで今にも動き出しそうなモンスターのように、こちらを見下ろしていた。
「ここは夜なんて美しすぎて眠るのがもったいないよ。満月の明かりが山々のシルエットを浮かび上がらせ、空気は怖いほどに透き通っている。……人が生きていくのに、そんなに多くのものはいらない。そうだよな?」
テントに来る前、シュレイマンが言っていた言葉の意味を確認した。
(次回に続く)