

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2002-04-05 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
太陽が沈みかけた瞬間から、コオロギ達はとんでもない轟音で鳴き始めた。
耳をつんざくような音とは、まさにこのこと。森中の空気が震えている。それと共に太陽はみるみるうちに地平線に向かって落ちていく。水面は朱色に染まり、さきほどまで大きく開いていた蓮の花は、まるで営業を終えた店がシャッターを閉めるように、みるみる花びらの角度を変えていく。

朝日を受けてのっそり起きあがったカバ一家の子供。
夜は陸にあがってくるカバは、ともすれば恐怖心から猛烈な勢いでニンゲンを襲う。
夜トイレに行く時には、まず周囲にカバがいないことを確認してからというのが鉄則。
コオロギが鳴くのにつられるように始まった蛙の合唱は、一段と音量をあげていく。
片方の空に太陽が姿を隠したその時、反対側の空を見ると五色の層になっていた。上からオレンジ色、明るいピンク、桃色、水色、最後が濃紺。最初は一番上の層が厚さを持っていたというのに、ほんの5分ほどの間に一番下の濃紺の層の幅がぐっと広がった。オレンジ色の層が帯のように細くなり、ちょうど頭の真上にまで濃紺の層がのびたところで、眩しいほどの月が顔を出した。
その瞬間、天体が真っ二つに割れた。太陽が沈んだ側は動の世界。そして新しく始まった月の世界が静の世界。頭上の線を境に陽と陰とがぱっくり分かれている。私は息を呑んでその天体ショーを見守った。
爛々と輝く月が昇ってくる。昔読んだ本に、アフリカの夜は読書ができると書いてあったのを思い出した。私も思わずカバンの中から日本から持ってきた文庫本を取り出した。字がくっきり見える。地面の砂の一粒一粒までが光るほどによく見えているのには、ほとほと驚いた。
逆に月のない夜の訳のわからない怖さは筆舌しがたい。自分が目を開けていても、瞼が閉じているのではなかろうかという錯覚を起こさせるのだ。5cm先も見えない世界では、手を振り回しながら前へ進むしかない。
サラサエモンが火を起こして、薪をくべる。昼間しかけた網に引っかかっていたナマズを焼き、二人でかじった。意外にも泥臭さが全くなかった。さっきまでうるさいほどに鳴いていたコオロギは、いつのまにか静まりかえている。
と、静寂の中で1時間ほど経った頃だろうか。時計を見ると夜8時。
ウー、ウーという低いうなり声に耳をそばだてた。
その声はパキンパキンと木の枝を折りながら、森を通過している。何かに怒っているような、脅しているよう…。
「……サラサエモン、あの音…なに?」彼は私の顔も見ずに答えた。「ライオンだよ」。
私はナマズを食べる食欲を一気に失った。動こうにも手足がこわばり、体が言うことを利かない。
敵は明らかに、私達から100m以内の距離にいる。「さっきからいたじゃないか」。
そう言われても…。サラサエモンと私は明らかに耳が違うのだ。サラサエモンには15分前から感じられていたライオンの存在も、私はたった今知ったところ。
「日本にもライオンはいるだろう?」
私はブルブルと顔を横に振った。殺されるんじゃないかと問うと、サラサエモンはあっさり「そうなったら仕方ないな」とだけ答える。生にしがみつき、恐怖のあまりうろたえる私とは、彼は全く異なる発想をするようだった。
それからが大変だった。さっさと寝てしまったサラサエモンに続き、私もテントに潜り込んだ。が、眠るどこではない。相変わらずライオンのうなり声がしている。かと思えば、狙われた動物が逃げまどっているらしく、叫び声とも悲鳴ともつかぬ音をあげながら、何かの群れが近くを走り抜けていく「音」だけがする。ほんの少しまどろんでも、まもなく聞こえてきたケオーッケオーッという鳥の断末魔のような声にハッとし、枯れ葉をまさぐる何者かの存在に私の心臓はより一層心拍数をあげる。東京にいる時には使われていない自分の五感がフル作動しているのがわかる。恐怖に絶えられず、ふと開けた目にテント越しの動物の影が映った時には、全身が凍り付いた。
耳に聞こえてくるのは、窓に当たる風の音ではない。自動車が通り過ぎる音でもない。近所の人が歩く音でもない。
ニンゲン種の私が全くコミュニケーションを取ることのできない、異種動物が活動をする音。
音だけで感じるサファリは、これまでに訪れたどのサファリよりも壮絶だった。
朝。薄日が差すのとほぼ同時に森のざわめきが鳥の声に変わった。
助かった。まだ命があることを神様に素直に感謝し、一晩中硬直していた体の力が少しだけ抜けた。
眠い目をこすり疲れ切った私とは対照的に、サラサエモンは飄々とテントから出てきた。
「怖くて怖くて眠れなかったよ」
「君はヘンだなあ。ライオンだってニンゲンは怖いから、よっぽどじゃないと人は狙わないのに」
じゃ、人を襲った日本の動物園在住のライオンは、相当「よっぽど」の状況だったんだろうかと、私はふと考えた。