

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2002-03-15 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
みなさんは普段生活をしていて、自分が他の動物から脅かされる危険を感じたことがありますか?
または、自分が動物類の中のニンゲン種だということを強く意識したことがありますか?

夕暮れ時、モコロ(小舟)に乗って森を進む。水が渦を描く。魚が跳ねる。虫が鳴く。
全てのシンフォニーに合わせて奏でられるサラサエモンの口笛は、水上の子守唄のようだった。
私達が当たり前に暮らしているその環境が、実はニンゲン達だけが繁殖した、地球にとっては偏りのある場所だと知ったのは、オカバンゴデルタ(オカバンゴ湿地帯)を訪ねた時のことだった。
上空から見ると、緑が地球の絨毯のように生い茂り、その間にキラキラ光る水がダイヤモンドのように輝くオカバンゴは、地球最後の楽園という異名をとってきた。丸みを帯びた地球に張り付くようにあるその楽園は、南側のカラハリ砂漠を境にその姿を忽然と消す。川が海に流れ出ず、砂漠に吸い込まれるという不思議な地形。
湿地帯だから当然道はない。従ってそこを訪れる人々は、セスナに乗り陸地になっている森まで飛んでいき、そこからモコロと呼ばれる小舟に乗り換え細い水路を頼りに、さらに奥へ入っていくという手順を取る。
私もその手順に従い、現地で知り合ったサラサエモンという船頭さんと一緒に、モコロに乗り込んだ。
湿地帯の水は実に不思議だ。川のような「流れ」がない。サラサエモンがパドルを水中に入れると水がまとわりつくようにくるくるとまわる。
私とサラサエモンの、オカバンゴでの旅が始まった。
パドルが何かにあたった。サラサエモンの指さす方向を見たら、ハゲタカがこちらをじっと見ている。
水中を覗き込むと、大きな肉の塊が浮いていた。サラサエモンは鼻を伸ばす仕草をした。
えっ?ゾウ?風向きが変わった途端、きつい死臭が鼻をついた。
私は混乱した。自然界に生命の入れ替わりがあるのは当然頭ではわかっている。でも私が普段日本で目にするのは、せいぜい部屋で転がっている息絶えたハエくらい。ゾウというスケールでそれを感じさせられた機会は初めてだった。
サラサエモンの話によれば、仲の良かった船頭仲間がゾウに踏まれて命を落とした、と。
目を丸くする私を見て、彼は逆に驚いた顔をした。「君の国にだって、ゾウはいるだろう?」
動物園という概念を説明するのが難しかった。そして思った。私達にとっての交通事故のような感覚、さらに言えば、交通事故の何十倍もの頻度で起きる事故の原因が、彼らにとっては車ではなく、野生動物なだけなんだ、と。
野生という自然の賜が生きる森では、私達が車を見るのと同じ感覚で、ゾウが森を走っている。モノがない世界には、代わりに生き物達の生命がそこここに溢れている。
日本にあちこち「壊れたモノ」が転がっているなら、オカバンゴには「命の営みを終えた生き物」が転がっている。
だからサラサエモンにとっては、ゾウの死骸は私達にとって壊れたパソコンを見るような感覚。
野生の命の循環が少ない都会に育った私に比べ、彼は生命のカラクリを私よりずっと知っているように思えた。
モコロはゆっくりと、水路を奥へ奥へと進んでいく。
周囲を観察していた私は、しばらく進んだところで、私は奇妙な気分にとらわれ始めていた。
ありとあらゆるものが巨大に育っている世界は、私を別の惑星にいるような感覚にさせた。
水路脇の草の間を歩くアリが、タバコのフィルターほどの大きさがある。巨大な体で地面をノッシノッシと歩いている光景に、自分が昆虫ホラー映画を見ているのではないだろうかと目を疑った。何かの拍子にモコロに転がり込んできたアリを間違えて踏みそうになったら、噛みつかれた。悲鳴をあげるほどに痛かった。
マッチ棒大サイズの足の長い蜂は、ヘリコプター飛行を連想させるほどの音を出して飛んでいる。
小鳥に至っては、一匹二匹がチュンチュンという可愛いレベルではない。何百、何千羽という鳥が集団で楕円を作り、その形を秒単位で変えて目の前を通り過ぎていく。
目の前にあるのは、土と水と空気と緑と空。そしてそれを取り巻く野生動物。
普段私が自分の家の周りで数十人のニンゲンとすれ違う、それと同じような感覚で、サラサエモンは毎日数十匹、もしくはそれ以上の野生動物とすれ違いながら暮らしている。逆にニンゲンとすれ違うのは日に一人あればいい方。
辺りに溢れかえる野生の躍動感を感じながら、ここはまさに現代のジュラ紀だ、と思った。
(次回に続く)