

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2002-01-18 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
若さゆえの無謀さというのは、不可能を可能にしてしまうから恐ろしい。この情報大国ニッポン、今となってはネパールなんぞというヒマラヤの小国への留学指南書も出ているけれど、当時は道のないジャングルに斧さえないまま放り込まれたような感じだった。その証拠に、父は「酸素、吸えてるか?」という電話を、カトマンズ一人暮らしを始めた私にかけてきた。

車道を作ることが極めて困難なヒマラヤでは、移動は自分の足だけが頼り。
山の民は50km、100kmという道のりをなんなく歩き通すのだ
留学を決めてからは、やることが山積みだった。決断を周囲に吹聴し息巻いてはいたものの、実は私、美容院で鏡越しの自分と向かい合うこともできない小心者。知り合い一人いない国の住人になりに行くのはコワかった。
ならば、とまずネパール人の友達を六本木で作ることにした。たまたま入ったイタリア料理店に、ナンパ風のトルコ人がいた。恐る恐る事情を話したら、意外にもまじめに、でもなぜかイラン人を紹介してくれた。すると今度はそのイラン人が、パキスタン人を、そしてついに念願のネパール人に辿り着いてしまった。まさに『意志あるところに道あり』。広大なユーラシア大陸をニンゲン芋蔓リレーをするように、私の現地生活のねぐらは決定した。
さて。そしてやってきたヒマラヤのお国。
町中をウロウロする牛に、いきなりお尻を頭突きされた。思いもよらぬところで作ってしまった蒙古斑。あわててトイレに入って確認し、ついでに用を足そうとしたら紙がない。そうか、ここは水と手で処理するお国だったんだっけ。郷に入らば郷に従え。不慣れながらもこの第一の基本的関門の方法を、大家さんに教わった。
次にぶつかった壁が他人と自分の境界線の違いだった。概して途上国というのは、個が確立しきっていないので、所有という概念が希薄。だから不思議な現象を目の当たりにした。部屋に遊びに来た現地のオネーちゃん達が私の服を着て、私の保湿クリームを塗って、出ていってしまうのだ。全く悪気なく、無邪気に笑いながら。
田舎のバスに乗ると、立っているお母さんが自分の赤ちゃんを持ってくれと手渡してくることもままある現象。知り合いになった日本人のお兄ちゃんは、バスに乗ってる間中、気分を悪くした現地のおばさんに肩を貸さざろう得なかったというのだから、私は思わず吹き出してしまった。
ネパールは国土の半分が山と谷の国。自分の家に帰るのに、バス停を降りてから7日歩き続けというのはごく普通の感覚。もちろん途中にホテルがない場所も多いから、知り合いの家を泊まり歩く。そんな必然から生まれた他人との距離の近さ。コンピューター慣れで対面仕事が苦手になってしまった人にとっては、フテ寝したくなるような現実が次々に待ち受けていた。
そこでポジティブに考えてみることにした。見知らぬ人へ扉を閉ざさず、とりあえず開いて応対するのが大陸に住む人々の感覚。せめて留学している間だけでも、それを自分に課してみよう、と。
ネパール語を学習し始めて二週間目、現地の文化に消化不良を起こし、日本の寿司ばかりを夢見るようになった。それでも外国人向けレストランに行くのを我慢し、現地の豆汁ご飯だけを食べ続けて三ヶ月後。会話、新聞までがほぼ理解できるようになり、楽しくて仕方なくなった。
あらゆるものを受け入れるようになったら、思いもよらぬ出会いが次々に振ってきた。
それが再び、その後の私の人生を大きく変えることになろうとは、全く予想もしていなかった。(次回に続く)