

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2002-01-11 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
二十歳。成人式の羽織袴を買ってもらう代わりに、ネパールにヒマラヤを見に行った。
理由は単純。井の中の蛙的な自分の視野を手っ取り早く広げるには、とにかく様々な分野における、世界のキワモノをこの目で見てまわる必要があった。その手始めにまず山、それも地球最高の尾根というのは分かり易かった。

ヒマラヤの子供たちは生命力がみなぎっている。
モノが豊かでなくても、前を向いて生きようとする
力の冴え方は天下一品だ。
「ネパールに行く」と言えば、周囲はオウム返しで「やめた方が・・・」。上の句と下の句がセットになっているかのように、否定形で返されるのが当時のお決まりだった。
でも前回のコラムに綴ったように、私はこの有限の人生を、やりたいようにやって死ぬと決めた。だから、周囲のアドバイスはありがたくても、私が後で悔やんだところで、周囲はそれに責任は取ってくれない。ということはやっぱり少しでもやろうと思ったことはやった方がいい。そして、貯めた小金を片手に、ひょっこりと訪れてみた。
GNP(国民総生産)が下から数えていつも10位以内に入っている国のホテルは、一泊約3ドル(400円)。
行く前に周囲から脅されていたように、ネパールの庶民はよっぽど貧困にあえいだ生活をし、悲壮感に包まれていると思いきや、これがまったく違っていた。“ノホホン”。この言葉がこれほど似合う場所はないと感じたのだ。
お茶にハエが入っていることを指摘しても、「こうすれば飲めるでしょ」と指でハエを取り出して私に差し出す店の主人。人の抜けた歯を再利用して、他人の口にはめ込んであげる路上歯医者さん。さらには、見たいテレビ番組があるからと、昼の15時には店じまいをしてしまう雑貨屋店主、などなど。私は気が抜けてしまった。
当時の日本はバブルが弾けた直後。新聞でもニュースでも人との会話でも、言葉に否定形が増え、ダメダ、キビシイ、マズイ、コマッタばかりが蔓延し、街全体が焦りに包まれていた時だった。
ところが。そんな日本を一歩離れてみれば、経済的にはもっと大変なはずのネパールの山の民が、お天道様の下、ミツバチが飛び交う畑で高いびきをたてながら、のんびりと昼寝をしていた。まるでこたつで眠る猫のように。
経済的繁栄とヒトの幸せは比例関係にないと知ったのは、その時だった。
うむ。あの“ノホホン”は一体何なのだろう?急に好奇心が湧いてきて、彼らをもっと知りたくなった。
地元の人と、地元の言葉で喋ってみたら、何かが見えてくるかもしれない。
そうして日本に帰ってきた後、早速ネパール語の教材を買った。と、同時に大学を一年休学することを決めた。
目的ができたら、途端にワクワクしてきた。どんなことをやっても許されるのが若さの特権。ならば20代のうちにそれを存分に利用せねば。結果がどうであれ、その経験自体がきっと何かの役に立つに違いない。
そうして、1年間の留学費用たった25万円を手に握りしめ、飛行機に乗ったのは、大学三年を終えた春だった。(次回に続く)