

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2002-01-04 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
ご挨拶
読者の皆さん、こんにちは。旅にまつわる「書く」「撮る」「喋る」「企てる」仕事をしている白川由紀です。私はここ数年、ユーラシア大陸やアフリカ大陸を縦横断するバスを走らせ、旅の途上で出会った人々の暮らしをレポートしする活動を続けています。
いやはや地球はまったく愉快痛快、奇妙奇天烈、珍奇珍妙極まりない星。
情報伝達技術が発達した今、世界の情報は調べればわかると言う人がいるかもしれないけれど、まだまだそんなことはございませぬ。歩いて体感してみれば、目玉が飛び出ること数限りなし。私自身、何度悲鳴をあげたことか。
というわけで、これから皆様にお世話になるこのコラム、私がこのような活動をするようになった経緯から、現場の珍事件に至るまで、脳に刻まれた記憶のすべてをほじくり出し、一挙公開させて頂きます。
どうぞ宜しくお付き合い下さいませ。

インドネシア・スラウェシ島、トラジャ族のお葬式は風葬。
故人をそのまま洞窟に葬り、自然に朽ちていくのが彼らのやり方だ。
のっけから、抹香くさい話で失礼いたします。
ある日ふと疑問に思ったこと。ソーシキは暗く悲しいものだと、誰が決めたのだろう?
そして。とある島のソーシキは、明るく愉快なものだということを、どうして私は知らなかったのだろう?
当時の私は19才。インドネシア・スラウェシ島の洞窟で、ガイコツの頭を撫でながら「これ、ボクのじいちゃん」と笑う7才の少年を前に、私はしばらく呆然とし、その直後、完敗したと思った。
少年は数日後、偶然執り行われた村のソーシキに私を誘ってくれた。
私は目を疑った。一応こちらは暗い顔を準備してその場に臨んだというのに、地元の人々は飲めや唱えや、陽気に踊り惚ける人までいる始末。その異様な盛り上がりに、私はケッコンシキの聞き間違いかと思い、近くにいた老爺にこれは一体何なのか?
と尋ねた。すると彼は竹筒に入った地酒を私に勧めながら、回らぬろれつでこう言った。
「ソーシキじゃ。だからお祝いじゃ。故人が新しい世界へ旅立ったことを、みなで祝福してあげるのじゃ」
私は天地がひっくり返ったような気分だった。そして思わず、自分の経験と重ね合わせた。
長い間、植物状態を患っていた母から学んだことは大きかった。脳血栓になった母は、昨日までごく普通にあった生活をその瞬間に失った。皮肉なことに、私は母のそんな姿を通して初めて、生きている時間の尊さを実感した。
私はそれまで、ただ漫然と女子高校生生活を送っていた。バイトをし、買いたいものを買い、ショッピング街にでかけ・・・。学校で微分積分は教わっても、ヒトが生きているその時間そのものが実は輝かしいことなのだということは、教科書には書いてなかったっけ。インドネシアを訪ねたのは、ちょうどそんな頃だった。
ガイコツになったじいちゃんに寂しくなると会いに来ると言っていた少年は、少なくともヒトの“終わり”を肌で知っている。そういう意味では、少年は私よりもはるかに先輩だった。
いずれ“終わり”が来るのがわかっていれば、それまでの時間を有意義に過ごしたいと誰もが思うはず。私も母の病を目の当たりにして、この有限の時間をどうやったら悔いのないように過ごせるかを真剣に考え始めた。
他人様に迷惑のかからない範囲で、好きなことをやりたい放題やって死ぬぞ。もたもたしているヒマはない。
「祝う」葬式をする村を訪ねて数年後、母は亡くなった。相変わらずニッポンのソーシキスタイルはなんだかじめじめして暗かったけれど、私は心の中で「ご苦労さま。次の世界でも達者でね!」と桐箱に入った母にウィンクできた。これは飲んべえ老爺から教わった知恵。
自分のソーシキの時にはベートーヴェンの第九でもかけてもらいながら、友達に一大ダンスパーティーでも催してもらうかな。洒落たシャンパンは、私のおごりということで。うん、いいじゃない。
しゃれこうべになったじいさまとおしゃべりをする少年と、ソーシキで楽しそうに飲んだくれる老爺に出会ったお陰で、自分のソーシキまでの時間が宝物のように思えてきた。この世のことはこの世でしかできない。
それと同時に、自分がそれまでいかに井の中の蛙だったかということを再認識した。
世界は広し。よし、時間が自由になる大学時代にあちこち行きまくるぞ。
そこから、私の旅人生が拓けていった。(次回に続く)