2001-05-02 号
吉村 智樹(ライター・放送作家)
日本には「まあまあ」という曖昧な表現がある。英訳を和英辞典で引くと「ジャスト アベレージ」と書かれている。しかし日本のまあまあとはチト、ニュアンスが違う。
例えば「今度の新しく出たあの人のCDどうだった?」「ん? まあまあ」「昨日のテストの出来どう?」「ん〜、ぼちぼち」「いま幸せ?」「まぁ、フツー」 など「いいとも悪いとも言える。あるいはどちらとも言えない」「そういうの考えるのがメンドクサイ。も、そんな難しいこと明日にして。今日なんかダルイ」というサッパリ的を射ないもの。まったく「ジャスト」な爽快感のない、もっとぼんやりグレイな陰影を秘め…。「まあまあ」という言葉は日本人特有の精神構造。つまりまあまあこそ日本なのだ。
この「まあまあ」は、人口過密な島国が円滑に運営されるためには、いたしかたない思想ではある。たとえばテストの点がかなり良かったり、今つきあってるラブラブなカレシの人格を問われても「まあまあ」と答えることで無駄な嫉妬をされずにすむ。
また、みんなで外食して、自分はマズイと思っても、みんながおいしそうに食べていたら「味? まあまあだよね」と言うことで自分だけ奇異の目で見られることがなくなるうえに、ウマそうに食ってた友人や、その店のプライドを傷つけなくてすむから一挙三得。「まあまあ」は無益な論争を引き起こさずにすませるための、ある意味優しい言葉なのだ。
とはいえ「まあまあ」は時に「突出せんとする者を排除してしまう」凶暴性を見せる。女の子が連れだってトイレに行くのも、男の子がツレのカラーに合わせるためストリートファッションをバイト代はたいて買ってしまうのも「突出した存在でいると不安になる(たとえオシッコに行きたいという生理現象であっても)」という「まあまあ思想」の悪い面だ。しかし、それが日本の姿なのである。

心の暗部をエンターテインメントに昇華しつづけることに突出した劇団「大人計画」の主宰者であり劇作家・役者である松尾スズキの書いた『これぞ日本の日本人』は、そんな「まあまあ」世界の中にいよういようとする日本人の姿を鋭く、しかし決して否定せず見つめている。「なぜかモニターに足を置いてしまうロッカー」「コンサートでのMCになぜか『イエーイ』と応えてしまう観客」「『なじみの店』になじめない自分」などなど「それ、俺だよ!」と首が痛くなるほど頷いた。この面白さは決して「まあまあ」ではない。