2002-08-20 号
丸川 珠代 (テレビ朝日アナウンサー)
夏休みもそろそろ終わりに近づいてきましたね。みなさんはどんな夏を過ごしましたか? 私自身は6月のサッカーW杯をきっかけに、この夏の間、国家や民族、愛国心やナショナリズムといったことについて、何かしらいつも思いをめぐらせていました。
あの日本代表ユニフォームの青い波の中で感じた巨大な一体感については、いまだに自分の中でとらえ方が定まっていない、という気がします。でも、あのときの感覚だけは体に残っていて、それがまた私自身を戸惑わせているのです。
あの感覚が国家や民族への愛情だったか?と問われると私には今もってわかりません。この国に住み続けるかどうかも疑問ですし、いつでも他の国で暮らしていける準備をしておこうとも考えています。
ただ、ナショナリズムの言説に対して私が抱く疑念は、以前よりはっきりしたように思います。それは、国家や民族、また公というものに対する愛を、果たして美化や強調によって取り戻せるのだろうか?という疑念です。
ナショナリズムを高らかに掲げる人たちは、「日本人が戦後、国家や民族への愛情を失ってしまったために、個人主義の罠に陥り、経済的損得のみで動く利己的な人間の集まりになってしまった」、と言います。
そして、その愛情を失ってしまった理由は「日本が戦争に負けたために、国家や民族の歴史の悪い面ばかりに目を向けてきたからだ」というのですが、果たしてそうなのでしょうか?
確かに、“利己的な”日本人像というものには、私も同意するところがあります。とりわけ腹立たしく思われるのは、官僚や政治家、企業家など、公に対して責任を持つ人たちの「自分さえよければ…」という利己的な行動です。
瀋陽の事件で明らかになった外務省の“事なかれ主義”、責任逃れのために不良債権処理を遅らせた大蔵(現在の財務省)官僚や銀行経営者など、公の立場にある人たちの無責任さは例を挙げればきりがありません。
こうした“責任感の喪失”については、私のコラムの中でナショナリズムの象徴的存在として取り上げてきた石原慎太郎氏も訴えています。しかし、国家や民族への思い入れが責任感を生むのかどうか?あるいは、歴史の良い面に目を向けることが、国家や民族への愛情を育てるのかどうか?というと、私は疑問を抱かずにはいられません。
というのも、私自身のことで言えば、普段国家や民族を意識しなくても、私は、私が生きている社会のために責任を果たそうとして、努力しているからです。それに、国や民族への愛情が育たないのは、私たちが自らの歴史に否定的だったことよりも、“公の無責任に対する失望”が原因にあるのではないか?と思うのです。
ここで私が言う“公”というのは、何も政府などの公権力だけを指しているのではありません。一人一人の大人が社会に対して背負っている責任を含んでいます。
例えば私たちは、民主主義社会の一員として、労働して税金を払い、社会に関心を持ち、国家に預けた権力を監視し、選挙に行って投票する、という義務や責任を負っています。さらに、私たちはそれぞれの職業など社会的立場を通しても、社会に対する責任を負っていると思います。
私たちは一個人でありながら、公の一部も構成していて、それぞれ社会の機能の一部を担っています。ですから、私たちが負っているのは、国家から任された責任というより、自分の隣や、その隣、そのまた向こうにいる、同じ社会に生きる人たちから託された責任なのだと、私は思います。
そういう責任を、大人たちは、意識してきちんと果たしてきたでしょうか? 残念ながら、私の考えではNOです。私たちは、政治家や官僚だけでなく、お互いに、隣人の無関心や無責任に失望し、まるで自分の殻に閉じこもるように、利己的になってしまっているのではないでしょうか?
隣人への失望は、自らへの失望に他なりません。結局、この国を誇れる国にしたいと思うのなら、まず自分自身の社会に対する責任を果たすことから始めるべきだと私は思います。
日本は、今現在でも十分誇れる国です。歴史を振り返れば間違ったこともありましたが、生まれたときから豊かで、十分な教育を受けることができた皆さんや私のような世代の人たちにとっては、日本人であることを卑屈に感じる瞬間など、ほとんどないことでしょう。
そういう世代は、国家や民族をことさらに美化する必要などなく、ただ社会を意識して責任を果していれば、おのずから日本を誇ることができると、私は考えています。