2002-08-13 号
丸川 珠代 (テレビ朝日アナウンサー)
お盆休みに突入して、東京は突然静かな街になりました。雲一つない乾いた青空に蝉の声が染み入って、街のあちこちに隠れていた自然が、にわかに鮮やかに見えてきます。
さて先週は、民族や国家を美化することが、ナショナリズムの危うさであるという話をしましたが、今週は、ナショナリズムのはらむもう一つの危うさについて、お話ししておかなくてはいけないと思います。
それは、ナショナリズムが“排外”主義に陥りやすいということです。民族や国家を価値観のベースにすると、それらが単に差別化=違いの根拠となるだけでなく、差別の根拠になってしまいがちなのです。
それは歴史的に幾度となく証明されてきたことです。今日まで世界が経験した悲劇的な紛争のいくつかは、“民族の対立”に端を発しているというのは、みなさんもよく知っているでしょう。
イスラエル・パレスチナ問題はその象徴的存在ですが、この50年にわたる紛争も、元はといえば、第二次世界大戦時にヒトラーがユダヤ民族の完全抹殺をねらっておこなったユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)が背景となっています。
ある民族が他の民族を、民族語と抹殺しようとする“民族浄化”が行われたのは、ホロコーストだけではありません。バルカン半島に深い傷を残したボスニアやコソボの紛争(ユーゴスラビア継承戦争)、隣人同士が虐殺を繰り広げ、現在、全国の村で草の根裁判が行われているルワンダ内戦もそうでした。
また、アメリカの空爆によってほぼ終結した形となっているアフガニスタンの内戦も、パシュトゥン・タジク・ウズベクの民族対立が主要な原因の一つでした。
紛争がおきるまで、民族はそれらの地域に混在して、平和に日々を過ごしていました。ところが植民地支配や領土拡大、権力闘争などにより、“支配する”民族と“支配される”民族が生まれたところから、悲劇が始まったのです。
なぜ“民族”なのか?というと、とても区別が簡単だからです。身体的特徴や日常的な慣習、言葉や宗教などで違いがわかるので、支配する側からみれば、非常に利用しやすい基準でしょう。さらに、どの民族に生まれてくるかは自分で選べないため、血縁に基づく既得権益を守りやすくなります。
“民族”というものが、歴史的に、身分や能力の優劣を決める道具に使われたのは、このような理由ではないかと思いますが、それゆえによりいっそう人々の憎しみは深く長く続くものとなりました。
さらに、民族が“排外”主義をまねき、人々の対立や摩擦を深めるもう一つの理由として、“自己防衛”という人間の本能的行動が挙げられるのではないかと思います。
私達はごく自然に、自分たちの拠って立つところ、アイデンティティーを保証してくれる所属集団を守ろうします。これは、そもそも弱い人間が集団になることで自分を守ろうとする、本能ともいうべき行動で、自分の肉体や尊厳が脅かされるほど、所属する集団への帰属意識は強くなるものです。
しかしこれが行き過ぎると、他の集団を見下したり、攻撃したり、あるいは存在を許さないことなどによって、自分たちの集団を優位に立てようとします。そして、自分の所属集団を“民族”だと意識したときに、そうした攻撃的な自己防衛本能は、排外主義や民族浄化につながってしまうのです。
しかし、みなさんはもちろん、民族の違いはたんなる“違い”であって、“優劣”の基準ではないということが、すでにわかっているでしょう。それぞれの民族に、ある特定の分野で優れている部分があったとしても、民族そのものを優劣の基準に考えることは不可能です。
ですから、私達は、いま平和の中に生きているからこそ、民族を誇りに思う気持の中に、他の民族を見下そうとしたり、存在を否定しようとする動機が潜んでいないか、注意深く判断しなくてはならないと思うのです。
ナショナリズムが発する耳障りのいい“感性の言葉”に惑わされることなく、民族の優劣を決め付ける意識が隠れていないかどうか——その真意を嗅ぎ分ける理性をもって初めて、「私は私の国を誇りに思う」と声を大にして言えるのではないか、私はそう思います。