2002-08-06 号
丸川 珠代 (テレビ朝日アナウンサー)
夏休みも残り一ヶ月をきりました。あっという間ですよ。そろそろ宿題の計画をしっかりたてたほうがいい頃かもしれませんね・・・。
さて、先週はナショナリズムについてのお話から、国家と個人の利益について考えました。個々人が冷静に考えて、最終的に国民ひとりひとりの利益に結びつくと判断されるなら、全体の利益を優先する事は必要だし、場合によっては進んでやるべきだ、と私は思います。
そこで大切なのは、全体の利益というものに対する個々人の理性的な判断ではないでしょうか。
しかし、ナショナリズムは、しばしば、国家や民族への献身を美化することによって、理性的な思考を停止させてしまう可能性をはらんでいると思います。
ここに、サッカーW杯中に新聞に掲載された、石原慎太郎氏のコラムを例に挙げて、ナショナリズムの危うさについて考えてみましょう。少し長くなりますが、ぜひ読んでみて下さい。
6月17日付産経新聞の、石原慎太郎氏のコラム『日本代表よ』には、こんな見出しがついています。「無私にして成る責任の貴さ 美しい日本の若者たち」。書き出しは「彼らはまさしく国を背負い、民族を体のうちに感じながら戦った。そして見事に勝った。」となっています。
確かに、日の丸がついた代表ウェアを着たり、日の丸の旗を振る5万人のサポーターから声援を受けたりすれば、”国家”を意識するでしょうし、目の前の敵チームが異なる人種ならば”民族”も意識するでしょう。
しかし、日本代表の選手たちは、国家の威信や民族の誇りのために、サッカーW杯を戦ったのでしょうか?
更にこう続きます。「・・・誰よりも選手たち自身がそう感じていたに違いない。そして彼等を見守り・・一緒に戦った観客もまた抗しがたく同じ感慨の内にいたに違いない」。選手たちばかりか、応援していた私達も国家や民族を背負っていたのでしょうか?
少なくとも選手たちの口から、”国家”や”民族”、あるいは”日本のために”という言葉は聞いたことがありません。それに、負けてしまって「残念です」と言う選手はいても「申し訳ない」と言う人はいませんでした。
これは、彼らが自分のため、そしてチームのためにサッカーをやっていた証拠ではないでしょうか?
そもそもナゼ、彼らが日本代表になったかを考えてみれば、もっとわかりやすいかもしれません。彼らはサッカーというスポーツにずっと打ち込んできて、サッカーを極めた先に、W杯があったのではないでしょうか?
間違っても、“国家”や“民族”を背負うべくW杯を目指したわけではないだろうし、日本代表選手に立候補して選挙で選ばれたわけでもありません。ですから“国家”や“民族”や私達サポーターに対して、選手たちはなんらの責任を負うものでもないはずなのです。
しかし石原氏はこう言います。「彼等全員が背に負い体の内に熱くみなぎらせていたものをなんと呼ぼうとも、彼らはそのもののために戦い傷つきながらも見事に、そのものへの責任を果たした。私たちがあのグラウンドの上に見た物は、今日の多くの政治家や政党、役人、あるいは企業の責任者が放擲してしまった、無私にして成る責任の遂行の美しさと貴さだった。」
日本代表選手が、一体どんな責任を負っているというのでしょうか? チームに対する責任ならまだわかりますが、石原氏のこの文章全体から考えて、体の内に熱くみなぎらせていたのは“国家”“民族”への思いで、それらへの責任を果たした、ということになります。これはおかしな話です。
チームの中で一人一人が責任を持って、自分を犠牲にしてでもチームのために働くことと、国家や民族を背負うこととは、質の違うことです。まして、政治家や役人、また企業経営者が、国家や公に対して負っている責任と、サッカー選手が公に対して負うものは、まったく異質なものです。
しかしこの文章は、一人が“チーム”のために背負った責任感を、“国家”や“民族”という言葉と並べておくことで、それら国家や民族への責任感まで美しく貴く感じられるように、書いてはいないでしょうか?
責任と無私、国家と民族、サポーターとの一体感、これら異質なものを同列に並べ、「美しく貴い」という言葉でひとくくりにするのはとても乱暴だし、メッセージを受け取る側の思考を停止させる行為以外の何ものでもないと思います。
「美しい」という言葉は、理性ではなく感性の言葉です。ある対象を美化する行為は、理性を飛び越えて感性の世界に飛躍することで、人々から思考を奪い、憧れによって対象を最大化させる一方で、人々自身を矮小化させ、無条件に対象を受け入れさせる行為に他なりません。
無条件に国家や民族を優先する回路を人々の思考の中に作ってしまうこと、これこそが、ナショナリズムのはらむ危うさだと私は思います。
今回のW杯は、戦後初めて国家や民族を、老若男女が素直に表現し体感した貴重な機会だったと私は考えています。私を含む多くの若い人たちは、生まれて初めて、何らかの巨大な一体感を体で感じ経験したことでしょう。
しかし、それを自分なりの思想に転換させる前に、ナショナリズムがやっているような“美化”を、予見として挟み込むべきではないと思います。
若い人たちは、自分にとって“国家”や“民族”とは何か、それは誰かが言うように美しく貴いものかどうかを、2002年のこの世界を見渡して考えてみればいいのです。
予見を注意深く避けて、自分なりに思考するべきなのです。繰り返し言いますが、個々人が冷静に理性的に判断することが、何より大切なことだと私は考えます。
大事なことだと思ったので、話がとても長くなってしまいました。最後まで読んでくれて、ありがとうございます。来週は、私個人が国家についてどんなことを考えているか、お話できればいいな、と思っています。