2002-07-30 号
丸川 珠代 (テレビ朝日アナウンサー)
夏休みに入って1週間、今国会は7月の終わりとともに、明日幕を閉じます。この会期末を受けて、先週金曜日の「朝まで生テレビ!」は、「激論!小泉総理の“通信簿”」というテーマで放送しました。
昨年4月以降の、小泉政権の仕事ぶりを通して、現在の日本が抱える問題について考えましたが、このテーマについては、今後また機会をみてお話しするとして、今日は先週の続きです。
先週まで、石原氏の“自立観”を通して、「ナショナリズムと日本の自立」という議論へ進んできました。さらにこれから、「世界の中での日本のあり方」や、「国家や民族というものへの意識」について、考えを進めていきたいと思います。
石原氏の“自立観”が、なぜ国や民族をことさらに意識するのか?という疑問はさておいて、今日はまず、ナショナリズムをベースにした国のあり方とはどんなものか?というところから考えてみましょう。
国や民族を“価値観のベースに置く”とは、どういうことでしょうか?それは、国や民族というものの価値を“対峙するものの価値より重く見る”ということでしょう。
例えば、“国家”対“国家”というとらえ方をすれば、自国のことが他国より優先されるということになります。これは、当然という気がしますよね。
では、“国家”対“個人”というとらえ方ではどうでしょうか?個人より国家が優先されるというと、何だか個人の権利が無視されている“全体主義”のように聞こえるかもしれません。しかし、これはありえる話でしょう。
例を挙げれば、小さくは自動車が右側通行を守ることや、大規模なものでダムを作るために村ごと引っ越すことなどです。これらは“全体の利益”のために、“個人の利益”をあきらめざるを得ないことですよね。
“安全保障”はその最たるもので、自分たちの生活している“国”を守らなければ、日々の生活すら送れなくなってしまうから、国の防衛行動に協力しよう、と考えるわけです。
このように、全体が優先される場合には、「最終的に自分の利益に結びつく」という判断がとても大切だと思うのです。しかし、個人の理性的な判断抜きに、全体が優先されることはあってはならない、と私は思います。
冷静な判断もなしに全体を優先することは、無批判な全体への同調につながり、集団の行動を暴走させる結果につながりかねないと思うからです。
これは私個人の考えかもしれませんが、冷静に考えて、最終的に個人の利益に結びつくと判断されるなら、全体の利益を優先する事は必要なことだと思うし、場合によっては進んでやるべきだとも思います。
しかし“ナショナリズムの定義”のように、「状況とは無関係に“国”や“民族”という価値や、個人より国家がいつも優先される」ことには、問題があると思います。
ところがナショナリズムは、国や民族が優先である、というばかりでなく、しばしば、“無私”、つまり自分を捨てて全体のために責任を果たすことを、“美しい”や“尊い”と賛美することがあります。
果たして、個人の利益を諦めることは、美化すべきことなのでしょうか?次週このことについて、考えてみましょう。