2002-07-02 号
丸川 珠代 (テレビ朝日アナウンサー)
とうとうサッカーW杯が終わってしまいました。この一ヶ月間というもの、毎日のように試合を見ては盛り上がり、家族や友人と語ってはまた盛り上がり、私は見事なまでの中毒になっていました。そんな日々が終わってしまったかと思うと、心にぽっかり穴が開いたような淋しさを感じます。
今回のW杯を満喫したという意味では、私はこの大会が日本にもたらしたものを、存分に体感した一人と言えそうです。ブルーに染まったスタジアムで、かつてない規模の一体感を味わった私が、一番に思いをめぐらしたこと、それは“ナショナリズム”でした。
“ナショナリズム”という言葉は民族主義、国家主義、国民主義などと訳されます。自らのよって立つ場所を民族や国家に求めるというレベルから、愛国心の強調、さらには、民族や国家の違いを絶対視し、他の民族や国家に対して排外的に接するというレベルまで、場面によってさまざまな強度を持つ言葉です。
戦後の日本では往々にして、世界平和や他国・他民族との協調よりも、自国の利益やプライドを優先する、排外的・独善的な姿勢を指して使われてきました。
ではなぜ、私がW杯で“ナショナリズム”を想ったのか?それは、ロシア戦で日本が勝ったとき、私は生まれて初めて「自分の“国”が勝った」という感情を抱いたからなのです。
私の中で意識された“国”というのは、“国家”という政治の枠組みというより、もっと感覚的なつながり、すなわち歴史や文化を共有する人たちの集まりというものです。それにしても、自分が“国”という感覚を持ったこと、そのものが大変な驚きでした。
というのも、これまでオリンピックやサッカーや野球で、日本人選手や日本のチームが優勝したとき、私はその個人やチームに対して感情を持つことはあっても、国や民族を意識することがなかったからです。
とりたてて、日本人であることを特別に思ったり、国家意識を持ったりしたことがなく、この先、一生日本に住むかどうかもわからない、と考えている私が、なぜそんなことを感じたのでしょう?
それは、韓国と共催したことによって、日本と韓国のちがいを、サポーターの応援、そして代表チームの戦いぶりを通して、改めて認識したということがあげられるかもしれません。それを私は、日本人の個性としてとらえました。
しかも、先週のコラムでも書いたように、共催国である韓国の勝利を、自分達の敗退ゆえに素直に喜べない気持ちが、自分の中にあることを発見しました。これこそ、“ナショナリズム”の悪い面、排外主義につながる気持ちではないのか…、それとも、素直な人間の感情なのか。
“ナショナリズム”とは、いったい何なのか、私は初めて自分の体験として、それをとらえたのです。
そんな折も折、「朝まで生テレビ!」で、ナショナリズムと石原慎太郎総理待望論がテーマとなりました。石原慎太郎氏といえば、東京都知事であり、元政治家として、作家・言論人として、ある意味で日本の“ナショナリズム”を象徴する存在です。
来週は“ナショナリズム”について、「朝まで生テレビ!」での議論を通して、そして私自身も、この感情を整理しながら考えてみたいと思います。