2001-08-14 号
丸川 珠代 (テレビ朝日アナウンサー)
明日は8月15日、21世紀最初の終戦記念日です。小泉総理が靖国神社に参拝するかしないか、ここのところ大きな話題になっていましたが、結局、終戦記念日を避け、昨日13日に参拝を済ませました。参拝に至るまでは、自民党の中だけではなく、連立を組んでいる公明党からも説得や反発を受けて、総理はかなり考えてこの決断をしたようです。どうして参拝がこんなに問題になるのか、その理由の一つは“政教分離”の問題、もう一つは“A級戦犯”が祀られていることだと、先週話しました。
“A級戦犯”というのは、東京裁判によって「戦争の首謀者」とみなされた人たちです。太平洋戦争当時、軍や政府の指導者だった人たちは、戦後、戦争に勝った9カ国(英・米・仏・ソ連・中国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・オランダ)と、インド、フィリピンによって、侵略戦争の遂行者として裁かれました。これがいわゆる“東京裁判”(極東国際軍事裁判)です。起訴された人たちのうち、「侵略戦争の計画実行者の平和・人道に対する罪」という罪状で判決を受けたのが“A級戦犯”で、28人起訴されたうちの25人が有罪になり、7人が絞首刑に、16人が終身禁固刑に、それぞれ一人ずつが禁固20年と禁固7年の刑に処されました。
しかし、この“東京裁判”には様々な問題点がありました。まず、「平和・人道に対する罪」というのは戦争中に存在しておらず、戦後の昭和21年に行われたこの裁判になって作られたものだったのです。それまでの戦争では“戦時国際法”に違反したかどうかを罪に問われていましたが、その中に「平和と人道に対する罪」というのはありませんでした。ある法律に触れる行為が、その法律が作られる前に行われていた場合は、遡ってその法律で裁くことは出来ません。これを“法の不遡及”といって、法律をあてはめるときの基本的なルールです。
さらに、そもそも“戦争犯罪”という罪が問えるのか、ということも問題です。国の利益を守るために、互いに武力でぶつかり合う戦争において、命やモノに甚大な被害が生じることは当然とも考えられます。それを勝った国が、受けた被害に対する罪を、一方的に負けた国に問うことが出来るのかどうか、そういう罪が存在するのかどうか、そうした議論はないままに、日本は(負けた国だから)裁かれました。こうしたことから、“東京裁判”は敗戦国であったが故に受け入れざるを得なかった戦勝国の断罪だとする意見が、戦後ずっと日本の中にあったのです。
しかも“東京裁判”で当てはめられたルールは国際法なので、国内的には、戦犯は犯罪人ではありません。また、日本の民族としての死生観には、「死ねばみな、同じ神仏となる」、つまり、神様や仏様になってしまえば、罪人も悪人もないという考え方があり、亡くなった以上は犯罪人・一般人という区別はない、という意見もあるのです。以上のような、日本人独特の死生観や“東京裁判”をめぐる問題点から、「“A級戦犯”をどうとらえるかは国内の問題であり、この人たちは犯罪人ではなく、従って、総理が終戦記念日に参拝するのは、何ら問題ない」という意見があるのです。
しかし、“東京裁判”の問題点を度外視してもなお、世論は分かれます。国際法の判決とは関係なく“A級戦犯”をとらえなおしても、一方には「日本の国にとっては、国を守るために命を捧げた尊い人達だ」という見方があり、一方には「戦争という過ちへ国民を導いた悪い指導者だ」という見方があるのです。このちがいは、“東京裁判”で罪を問われた戦争を、私達自身がどうとらえるか、という視点のちがいに基づくものです。あの戦争は、国を守るための戦争だったのか、それとも、間違った侵略戦争だったのか。後者の見方は、“東京裁判”によって連合国側から植え付けられた価値観だ、という考え方もありますが、戦争終結から今日まで、大きく分けてその二つの“戦争のとらえ方”があって、世論の対立の軸になってきましたそしていままさに、“歴史教科書問題”“靖国神社参拝問題”では、戦争のとらえ方をめぐって、議論になっているのです。
戦争が終わってもう50年以上がたち、高校生のみんなには全然関係ない話に思えるかも知れません。でも日本が抱えている難題の多くが、戦争のとらえ方を根元としています。もう少しだけ詳しく、戦争のコトを考えてみよう!