

1965年愛知県生れ。ノンフィクション作家。主な著書に『17歳の殺人者』(ワニブックス)『学校的日常を生き抜け』 (教育資料出版会)『美しき少年の理由なき自殺』(メディアファクトリー)など。
2003-08-11 号
藤井 誠二(ノンフィクション作家)
少年による凶悪で不可解な事件がおきるたびに、ぼくはこの『寄生獣』(岩明均・講談社)を読み返しています。全10巻ですがその構成力や展開力、そして提示されている深遠なテーマが読む者に時間の経過を感じさせません。著者の方にしてみれば、少年事件と結びつけられて紹介されることに不快感を抱かれているかもしれませんが、それにはこれから述べるような「理由」があります。

『寄生獣』
まず、ざっとですが『寄生獣』について説明します。この作品はトータルで1000万部を売り上げた漫画作品です。宇宙から地球に飛来した生物が人間に「寄生」して、脳や身体を奪い、コントロールするようになる。普段は人間のかっこうをしているけど、かれらは人間が唯一の食物なので、「食事」のときには怪物のようなかっこうに姿を変形させる。あちこちでその光景が目撃され日本社会はパニックになるが、当局は情報操作をして奇怪な殺人事件として片づけられていく。寄生生物にとっては人間は唯一の食べ物であり、殺人を悪とする人間世界の倫理や常識を理解できない。どうして人間を殺して喰っていけないのかがわからないのです。

『寄生獣』
主人公の男子高校生は右手にだけ寄生され、脳は人間、右手は意思を持った寄生獣という、寄生獣の論理と人間の論理を同時に体験することになるという設定です。寄生獣は人間の理屈を知ろうとつとめ、高校生のほうも次第に寄生獣の考え方に同調する部分もでてくる。いわば二つの自我を同居させている高校生が、その年齢ならではの悩みも抱えながらその両方とまじめにつきあっていく。
寄生獣は人間をミンチにして喰う。人間は牛や豚をミンチにして喰う。この行為を物理的だけにに分解してみると、双方にはなんの違いもなく、人が殺されているのも同じ物理的行為が起きているにすぎないのではないか、と思えてきます。人を殺してはならないという人間がつくりだした倫理が解体されてしまうような感覚を覚え、人間の命と動物の命の差異がわからなくなる。これは錯覚ですが、そういう禅問答的な思考の迷宮に読むものを引っ張りこんでいきます。
2001年に愛知県豊川市で起きた、高校生による老主婦殺人事件を取材し、『人を殺してみたかった』(双葉社・双葉文庫)というノンフィクション作品にまとめたとき、この作品が持っている命題がいっそうのリアリティを持って迫ってきました。少年は、逮捕後も「人を殺す体験がしてみたかった」「殺したおばあさんに謝れといわれてもできない。幽霊としてでてきてくれた謝れる」などぼくたちには理解不能な発言を繰り返しました。
加害者の少年は、「人間とほかの動物の命の違いがわらかない」と精神鑑定をした医師に語り、とりわけその医師と『寄生獣』について語り合っています。
次は『人を殺してみたかった』(文庫版)で引用した少年と鑑定医とのやりとりの一部です。
鑑定医 人の死、殺人、頭に浮かぶ浮かび方は、時を追って違いはあるの?
少年 変化したというより、蓄積されていったというか、頭の中に詰まっていった。
鑑定医 はじまったのは『寄生獣』の漫画を呼んだときとき、もっと前とか言っていたけど?
少年 この間強調したのは10巻に殺人鬼がでてくるシーンです。「だれでも人を殺したがっているはずだ」と言って死ぬ、そのところが印象に残っている。だんだん寄生獣が人を殺すことと人間が人を殺すこととどう違うかわからなくなっていく、漫画の中でそういう進展になっているのですけど、それで死が近かったら人を殺して死にたいと考えてた。
ぼくは『寄生獣』が少年の動機の一つだと言いたいのではありません。あの作品の中で逆説的に問われた命題が、少年の中では「まっとう」な自問自答として成長し続けたという重たい事実を考えていきたいのです。少年が事件を起こすまで生きてきた環境や人間関係はいったいなんなのでしょうか。その社会のなかにぼくたちも生きているのです。