

1965年愛知県生れ。ノンフィクション作家。主な著書に『17歳の殺人者』(ワニブックス)『学校的日常を生き抜け』 (教育資料出版会)『美しき少年の理由なき自殺』(メディアファクトリー)など。
2001-08-06 号
藤井 誠二(ノンフィクション作家)
私は日垣隆さんに以下のような返信をした(要約)。
[当時、16歳の僕が「人権」という言葉を知って目覚め、これは闘う武器になると勇気づけられた事情はどうか理解してください。(笑)以来、子どもの人権ふくめ人権そのものについて関わる社会事象を取材、発言していくようになるのですが、このところ、その「人権」が暴走し、独りよがりに主張していると痛感しているのです。
子どもの人権に関していえば、大人並みの市民的権利を要求しているくせに、子どもが犯罪を犯したり都合が悪いことが起きると「子どもだから保護しろ」と主張する「人権派」が偽善の固まりに思えるようになってきたのです。子どもにも市民的権利は与えるべき(法で保障された)だが、それにともなって自己責任も大人並みにとってもらう、というのが短絡的ですが僕の基本的な考えです。日垣さんがおっしゃるように、めちゃくちゃな「管理教育」を人権侵害教育というより、犯罪教育と呼んだほうがわかりやすいかもしれませんね。
逆に教えていただきたいのは、日垣さんが書いておられる「適度な管理」という言い方についてです。日垣さんが考える「適度な管理」とは、どんなものですか。きっとそれは子どもの年齢によって異なるものなのでしょうし、学校によってもちがってくるものなのでしょうか。それは誰が決めればよいのでしょう。ぼくがマンモに書いている高校の話ですが、たしかに「適度な管理」が存在していたように思います。僕はそれを「ぬるま湯のような自由」と書いたような気がしますが、学校によって(それが公立であっても)「管理」の度合いはさまざまです。
学校は集団である以上、ルールは必要だし、合理的な理由にもとづいた管理も必要です。ぼくはそのことは否定していません。むしろ、非合理的な校則(管理)を押しつけるから、子どもはそれに反発していいものと勘違いし、甘ったれたクソがきが増えるのだと思っていますが、まちがっているでしょうか。
ナイフ事件のときもぼくは持ち物検査は反対せず、むしろ被害者になるかもしれない子どもの人権を守るために、金属探知機を出入り口に置くべきで、危険物は没収されてもいいと主張していました。佐賀のバスジャック事件のときも、人質になった女の子の人権を守るために、犯人の少年は射殺するべきだったと言いました。そういう意味では僕はいまでも子どもの人権派です。(笑)]