

1965年愛知県生れ。ノンフィクション作家。主な著書に『17歳の殺人者』(ワニブックス)『学校的日常を生き抜け』 (教育資料出版会)『美しき少年の理由なき自殺』(メディアファクトリー)など。
2001-07-30 号
藤井 誠二(ノンフィクション作家)
前々回の本コラムに対して、ジャーナリストの日垣隆さんからご批判をいただいた。日垣さんは早くから少年法の矛盾を鋭く指摘し、最近では精神障害犯罪者の処遇や社会での扱われ方についてタブーなく斬切り込んでおられる。そのあたりは文藝春秋刊『偽善系』Ⅰ・Ⅱに詳しいが、氏の仕事は常に問題の正鵠を得ており、教えられる点が大だ。
[Mammo.tvにお書きになっていた「人権」絶賛ともとられかねない御説、ちょっとびっくり。いや、当時の状況に対抗するには、この概念が必要だった、というご趣旨であることは理解するのですが。あれは「人権」より「犯罪」として捉えたほうが(当時も未来=現在に対して)有効だったというのが私の(単純化すれば)総括です]
日垣さんが「あれ」と指しているのは、私が10代時に対峙していた、いわゆる「愛知の管理教育」の実態のことだ。私が「あれ」を「人権侵害教育」と書いたところ、日垣さんはそんなものは教育ではなく、犯罪と呼んだほうがよく、さらに「人権」そのものへの疑問があると言ってこられた。
私は前々回こう書いていた。[私はそれまで読まなかった本を乱読するようになり、そのなかで「人権」という言葉に出会うことになる。いうまでもなく、人間として生れた時、自然に誰にでも保証された、生きるための権利。天賦人権の考え方が個人主義・自由主義の根幹になっていることを知ったのだった。そして、それを具現化した憲法や国際条約、国内法などを学校にあてはめて読んでいった。私はたちまち一つの強い確信を得る。自分たちが怒りを抱いている「管理教育」の実態を言い換えれば、明白な子どもの人権抑圧教育と言い切ってしまうことができる、と]
日垣さんは、ご自身が書かれた原稿も添付してくださり、[ここらあたりは、いつかしっかり雑談しましょう。違いは違いとして、無理にすりあわせることもないので、愉しく、厳しく]と締めくくってくださっていた。
日垣さんの許可を得て、抜粋になるがその「新ニッポン論52 どんな社会を?」を掲載させていただく。
[(前略)権利の主張が「ゴネ得」となり、自由は「わがまま」に、平等が「足の引っ張り合い」、民主主義は「声の大きいものが勝つ」、福祉が「嫌なことは他人任せ」に、ある一線を超えると必ず逸脱していく。それは宿命的だ。そのことを忘れてはならないと思う。
度過ぎた管理教育に対抗して、八〇年代から登場してきたのが「生徒の人権」だった。
退治すべきは、例えば修学旅行にドライアーを持ってきた生徒を教師が殴り殺してしまうが如き度過ぎた管理教育としての犯罪であって、教育に適度な管理が必要なことまで全否定しては、教育自体が成り立たなくなる。ナイフによる殺傷事件が相次いだとき、持ち物検査を多くの組合教師や弁護士が「人権」をタテに拒否したが、命を軽視してまで喧伝すべき人権とはいったい何だったのか]
次回以降も、私と日垣さんのやりとりを掲載したいと考えている。ぜひとも、読者のご意見を請いたい。