

1967年茨城県生まれ。医学ライター。医療関連編集者を経て、フリーランスライターとして独立。循環器、癌全般、消化器、泌尿器、皮膚科、眼科などの医学記事を執筆。海外取材も多い。
2006-11-27 号
高野 雅典(医学ライター)
木造の建物が密集した江戸の街にとって、火災は深刻な社会問題だったという。江戸を守る「火消し」たちはいくつもの組に分かれて組織化されており、それぞれの組が互いにライバル意識を持っていたらしい。火災現場では、どの組が消火活動の主導権を握るかをめぐって、喧嘩になることもしばしばだったそうだ。
先日取材した、とある医学学会で、討論会中に大学の先生同士が言い争いになったのを目撃した。医師や研究者は、こういう場では基本的には紳士的であるので、議論に熱くなりすぎるということは滅多にない。しかし、この討論会のテーマは、現状ではなかなか治療が難しい種類の癌についてであった。生存率をどうにか上げようという努力がなされている真っ最中の領域であり、患者の命がかかっている重大な問題なだけに、議論が白熱したのだろうと思う。
2つの治療法を巡って議論が分かれた。片方は、癌組織を切り取る「外科手術」である。この種類の癌に対しては外科手術が「標準治療」とされているが、そこには長年に渡る治療データの蓄積があり、そうした膨大なデータが背後にあるからこそ、標準治療という座についているとも言える。外科の先生たちの間には、そうした努力を続けてきたという自負もあるだろう。患者の立場からすると、手術をして臓器の一部を切り取ることは恐怖心もあるし、実際に体力的な負担も大きい。しかし、確実に癌を切除することで長期の生存率が高まるという事実がある。
もう一方は、癌組織を熱で部分的に焼いてしまう新しい治療である。外科手術のように腹部を切り開く必要がなく、針のようなものを体内に差し込み、その先端部分で癌を焼くというものだ。この治療は、外科ではなく主に内科系の先生たちが発展させてきた。
例えば、臓器のなかで癌が何カ所かに散在している場合、従来の外科手術では臓器の大部分を切除しなければならず、ダメージが大きい。場合によっては、あまりに多くの部分を切り取る必要があるため、事実上は手術不可能ということになる。ところが、この新しい治療法では、散在する癌であってもピンポイントで治療できるため、外科手術が不可能な患者さんを救える可能性があるのだ。
この新しい治療法を推進している先生たちの意気込みは、なかなか凄い。従来の標準治療である外科手術にも勝るとも劣らない治療法であることを、長期の生存率データを示して、主張する。
ところが、外科の先生たちは、そうしたデータに首を縦に振らない。まだ一部の患者さんが長期生存しているに過ぎず、充分なデータとは言えないというのだ。たしかに、これまで標準治療とされてきた治療に比べたら数が少ないのは当然ともいる。しかも、ピンポイントで癌を焼く方法は「取り残し」が問題となる。全ての癌が取りきれずに、結局残った癌が大きく成長してしまうことがある。外科の先生たちは、そういう例を見て知っているので、なかなか新しい治療法に理解を示さないのだ。
では、第一番目の選択として、外科手術と新しい治療法と、どちらがよいのか、その点を、科学的な比較試験を実施して調べてみればいい。
しかし、ここでも議論は二手に分かれてしまう。外科の先生たちは「まくまでも外科手術が標準なのだから、まず外科手術を第一に考えて、それが不可能な患者さんに限って新しい治療法を選ぶ形でデータを地道に集めてゆくべきだ」と主張する。しかし、新しい治療を推進する先生たちは「それは、外科手術が絶対に優れているという前提に立った論理だ。新治療法には外科手術にはない良さがあることを分かっていない」と反論する。なぜ、生存率も良好で、患者にも負担をかけない新治療法を先に選択してはいけないのか、というのである。
医学研究の場では、2つの治療法を比較するときには「ランダム化比較試験(無作為化比較試験)」と呼ばれる研究方法が取られる。簡単にいうと、ある人にはAの治療を、また、ある人にはBの治療をという選択をくじ引きのような方法で決めて比較するという方法だ。こうすることで、2つの治療法を同等の条件で比較することができ、その試験結果は信頼性の高いものになる。逆に、この人にはAの治療が良さそうだ、こっちの人にはBの治療が良さそうだというような人為的な判断が混じると、どちらか一方に都合の良い結果がでてしまう可能性があり、正確な比較にはならない。
ところが、癌の治療ともなると、ランダム化試験は倫理的に非常に難しい。比較する2つの方法が互いに似通っている場合(例えば癌を切除した後の化学療法をどの薬にするかという選択など)では、実施させることもある。しかし、癌の切除法そのものの比較となると、もともと生命にかかわる病気であり、しかも、癌が増大したり、転移したりしたら、患者の不利益は計り知れないくらい大きいだけに、難しい。
現実の臨床では、この患者さんには外科手術が向いているだろう、この患者さんにはそれ以外の治療法が向いているだろうという判断のもとに治療方法が決定されている。ただし、これは外科と内科が緊密に話し合いをしていれば、の話だ。現場の先生の話を聞くと、毎日、毎日とても沢山の患者さんを相手にしているので、一人一人の患者さんについて外科の先生と内科の先生がじっくり話し合う時間はほとんどなく、不可能に近いという。ということは、主治医が外科か内科かによって、治療法の選択に差が出てくることを意味している。それぞれの先生が得意とする治療法を使おうとするからだ。そして、どうしても、自分の治療法が不向きで実施できないと判断される場合に、はじめて他科の先生に相談するという形になるらしい。
ところで、この討論会には、第三の立場とも言うべき先生も発言していた。この先生の施設では、癌専門のチームを形成して、その1つのチームのなかで外科治療と内科的な新しい治療を行っているのだそうだ。これを「集学的アプローチ」という。
集める学、つまり、外科学・内科学という歴史的にも全く異なっている学問を統合する、という意味だ。この難しい種類の癌に対して集学的アプローチを実施することで、どのくらいの長期生存率が得られるのかが発表された。目覚ましい成果というわけにはいかないが、それでも、かなりの生存率が示されていた。
本来、患者さんは「最善の治療」を受けるべきであって、外科・内科という区分は医学・医療の側の都合にすぎないとも言える。この先生の施設のように、どの病院でも、外科・内科が「集学的」に機能してくれたらよいのに、と思う。しかし、現実は、なかなか難しく、一部の施設で少しずつ「集学的アプローチ」の仕組み作りが行われているにすぎない。
最初の江戸の火消しの話にもどるが、家屋で火が燃えさかっているときに、火消し同士が争っているのは、はたしてどうなのだろうか。一緒に協力して火を消して欲しいと思うのが一般市民の気持ちではないだろうか。
ただ、僕は、そこにも難しい側面を感じた。人間の努力というものは、ときとして競争を背景にして最大限になるということがあるからだ。僕自身は、外科と内科系の先生の本気の討論を見ていて「切磋琢磨」という言葉を思い出した。それぞれが、相手を目標に自己の成績をあげようとする、その意気込みで、治療法が改良され、技術が磨かれ、癌治療の成績が向上してゆくのかも知れないからだ。その先に「集学的アプローチ」が達成されれば、患者さんにとって一番良い状況が生まれるのだろうが、今は新しい治療法が発展している時期であり、議論が絶えないのだと思う。先生同士の喧嘩は、医学・医療が、これからまだまだ発展する可能性を持っていることを指し示しているのかも知れない。