

1967年茨城県生まれ。医学ライター。医療関連編集者を経て、フリーランスライターとして独立。循環器、癌全般、消化器、泌尿器、皮膚科、眼科などの医学記事を執筆。海外取材も多い。
2006-01-16 号
高野 雅典(医学ライター)
何年か前の冬のことだが、映画館で前の席に座っている男性がおもむろに扇子を取り出してパタパタと扇ぎはじめたことがある。暑いわけでもない映画館でそんなことをする必要がなぜあるのか、と僕は不思議に思った。そもそも扇子というのは、冬にも持ち歩くものなのだろうか?
映画がつまらないというわけではないが、僕は、その男性がときどきパタパタやるのが気になって、ストーリーに集中できなくなった。パタパタの仕方が悠長ではなく、やけに神経質に小刻みで乱暴な感じなせいでもあった。
よく観察してみると、その男性は近くに座っている誰かが咳き込むたびに、パタパタとやるのだ。どうも、そうやって風邪のウイルスを扇ぎ飛ばそうとしているらしい。僕はおかしくなって、試しに、わざと咳き込んでみた。男性は、キッと睨むようにこちらを振り返って、溜め息を付きながらパタパタ、パタパタと、こちらに風を送り返してきた。僕の咳は少し大きすぎたみたいだった。
東京にはこんな神経質な人が沢山いる。その男性、実は和装姿ではない。和服を着たナイスミドルなら扇子を持っていても不自然ではないが、その男性は普通の襟付きのシャツに化繊のジャンパーをはおって、学生っぽいメガネをかけており、僕よりもずっと若い。おそらく足もとにはリュックを置いているはずだ。いわゆるアキバ系のファッション。髪型もそんな感じだ。・・・こういう人が冬場にわざわざ扇子を持っているのだから、これはもう風邪対策用の便利グッズ(と本人は思っている)に違いないのだ。
僕は以前見たテレビ番組の映像を思い出した。バックが黒い壁の空間で被験者が咳をすると、息が数メートル先まで飛んでゆくのが、どういった仕掛けかは忘れたが、映像として捉えることができる。「咳によって飛ばされる飛沫が、こんなに遠くにまで到達するのです」と解説されていた。その男性もああいう映像を見たことがあるのだろう。
視覚化というのは、人を納得させるのに非常に有効な手段だと思うが、同時に、あらぬ誤解を生むものだと思う。咳をした人の口からゴジラの放射線のように息が放出されて、それにのって風邪のウイルスが到達するのなら、同じように、風を送り返せば防御することができる・・・と、男性は考えたのだろう。もちろん、それは必ずしも間違いとは言えない。例えば、感染力の強いウイルス感染症患者を隔離コントロールする病室などは、室外よりも気圧が低めに設定され、室外に空気が流れ出ないように工夫されている。ただ、それと同じような事が扇子で出来るかと言えば、残念ながら、そうではないだろうが。
むしろ、あの映像は、「こんなに飛沫が飛ぶので、咳が出る人はマスクをして、なるべく息を飛ばさないようにしましょう」という意味に解釈すべきではないだろうか。
数年前、SARSの世界的流行が懸念されたときのことだが、中国から日本を経由して他国に行く人々が皆こぞってマスクをしていた。それを見て、気後れ気味の日本の人たちも、羽田空港でマスクを買ったり、買わなかったり・・・。この時のマスクの意味は、人に風邪をうつさないためではなく、機内でSARSから自分の身を守るためだったわけだが、さてどうしたものかと、僕も考えた。結局、飛行機のような狭い空間に閉じこめられるなら、安手のマスクなんかは大した意味はないだろうと考えて、気後れしたまま購入せず、アメリカに向かう飛行機に乗った。
機内の半分ほどの人がマスクをしている。人それぞれ様々なマスクをしていて、普通のガーゼを折り返した簡単なものから、立体裁断された格好いいものまで。自分も買うべきだったかもしれないと、やや後悔したが、通路をはさんだ向こう側の席に座っている中国人のおばあさんが、どうみてもペラペラの食品製造業の人が使う唾液飛散防止用のマスクをしているのを見て、なんだか気の毒に思えた。確かな情報もないのに、みんなで踊らされると、ろくな結果を生まない。
一方、機内でマスクをしている他の人たちも、よく観察していると、コーヒーや食事を摂るたびにマスクを外している。強力な感染力をもつウイルスがいたら、もう、それまでだろう。食事が終わったら装着するのかというと、そうでもない。マスクをあごにかけたまま、隣りの人と大声で話をしている。やがて、就寝時間になると、慣れないマスクが息苦しいせいなのか、あごにかけたままゴーゴーいびきをかきはじめてしまう。そんな人だらけだ。・・・もう、これでは何の意味もない。
それから1〜2年たった頃だが、僕は飛行機内のカタログ販売誌でおもしろい商品を見つけた。パーソナル・エア(個人用空気?)とかいう品物だ。「あなただけのフレッシュで清潔な空気」。どういうことかというと、それは首から提げる空気清浄機みたいなもので、フィルタリングされた空気を口や鼻もとに吹き付け続けるのだという。
これなら、扇子から一歩前進だろう。なにしろ扇ぐ必要がない・・・。
さて、皆さんはオカルトという言葉の元の意味をご存じだろうか。魔術的な、神秘的な、といった恐ろしげな意味以前に、「隠れたもの」というラテン語の原義があるのだそうだ。ウイルスによって引き起こされる風邪は、まさに日常のオカルト現象だ。原因が科学的に解明されているのに「オカルト現象」とは何事かと言われそうだが、個人のレベルでは、風邪のウイルスが一体いつどうやって体内に侵入してくるのか、その現場を目撃することは出来ない。
人は、目に見えないものを強く恐れるし、同時に、強い興味関心を持つ。そして、目に見えないものを、あたかも目で見たかのように理解しようと努める。でも、そのときに、随分と滑稽な誤解をしてしまうことが少なくないようだ。
これだけ科学が進歩しても、完璧な風邪の予防策というのはない。しかし、一般に、うがいと手洗いが勧められているのは、みなさんもご存じだと思う。風邪のウイルスが感染するのは主に上気道なので、のどを清潔にすることは有効な可能性がある。また、ウイルスの一部は、石鹸の作用によって感染力が低下することが知られている。これらの方法は、科学的な意味がある程度考えられる予防方法であるし、最近では、水道水を使ったうがいが風邪予防に有効であることを、京都大学保健センターの川村孝先生らのグループが約380人を対象とした研究から報告して、大きな話題となった。
日常のオカルト現象には、まずは落ち着いて、基本的な手段で立ち向かうのが良いのかも知れない。何か特別な手段を講ずるのは、それからでも遅くなさそうである。