

1967年茨城県生まれ。医学ライター。医療関連編集者を経て、フリーランスライターとして独立。循環器、癌全般、消化器、泌尿器、皮膚科、眼科などの医学記事を執筆。海外取材も多い。
2005-10-03 号
高野 雅典(医学ライター)
秋は医学学会が多数開催される季節で、僕もいくつかの学会取材であちこちを歩き回ってきた。先月上旬には、スウェーデンの首都ストックホルムで開催された欧州心臓病学会を取材しに行った。スウェーデンというと、ノーベル賞を設立したアルフレッド・ノーベルが有名だ。首都ストックホルムでは、毎年ノーベル賞授賞式が行われる。
ノーベル賞受賞者の晩餐会が行われるというストックホルム市庁舎に足を伸ばしてみた。ノーベル章メダルを模したチョコレートが売られていると噂を聞いて「お土産にちょうど良いかな」と思ったのが、行ってみる動機の一つだったが、もう一つ、ノーベルが心臓病と関係が深い人物だったという理由もある。心臓病学会で、ノーベルゆかりの地を訪ねるというのはおもしろいかも知れない。

ノーベル賞受賞者の晩餐会が行われるストックホルム市庁舎
以前、編集者さんの一人から質問電話を頂いたことがある。「循環器の記事を扱っていると、一酸化窒素(NO)という体内物質の話が沢山でてくるのですが、NOは体に良いものなのですか?悪いものなのですか?」という質問である。
答えは、もともとは排気ガスなどに含まれる有害物質として知られていたが、1980年代〜90年代の研究で、実はNOは体の中でも自然に作られ、血管を拡張させる働きをする重要な物質であることが分かったというものだ。しかし、実はこのNO、アルフレッド・ノーベルと関連の深い物質なのだ。
アルフレッド・ノーベルは、今から140年ほど昔の1860年代後半に、ニトログリセリンを原材料とするダイナマイトの製造法を考案して、巨額の富を得た。循環器の研究分野では、血圧測定器がやっと発明されて間もないような、そんな時期である。ノーベルのダイナマイト工場の職員達は、休日明けの月曜日になると頭痛が起きるという不思議な症状に悩まされたという。これは、今考えると、ニトログリセリンが放出するNOが、脳血管を拡張させるために起きた頭痛ということになる。けれども、当時は原因不明の症状でしかなかった。
もう1つおもしろいことがある。狭心症を抱えているダイナマイト工場の職員は、労働日よりも、休日に狭心症の発作を起こすことが多かったという。これも、今考えると、心臓の冠動脈や全身血管を、ニトログリセリンから放出されるNOが拡張させていたため、労働日には狭心症の発作が起きにくかったのだということになる。けれども、当時は、そんなメカニズムが体の中にあるとは誰も気づいていなかった。
とはいえ、治療薬開発への人類の意欲というのはものすごいものがある。ニトログリセリンが狭心症の特効薬として使われはじめたのは、ノーベルによるダイナマイト発明からわずか10年ほどだ。メカニズムは良く分からないが、とにかく効くという経験から特効薬になってしまったのだ。ノーベル自身も後年には心臓病を患っており、医師からニトログリセリン製剤を処方されていたという。ニトログリセリンを爆薬に応用したノーベル自身が、後年、それを治療薬として使うに至ったのだから、何か皮肉な話である。

ストックホルム市庁舎の調度品に彫られたノーベルの肖像。手には薬品が入ったフラスコを持っている
ニトログリセリンは、今でも、狭心症や心不全のための薬として利用され続けている。舌下錠と言って、口の中で溶かして吸収させるタイプや、スプレータイプや、皮膚に貼るパッチタイプの薬が医師によって処方されているのだ。かつては、何故効くのか分からなかったニトログリセリンも、1980〜90年代の研究によって、NOを体内で放出し、血管を拡張させるため、狭心症状を素早く抑えることが良く分かっている。
血管内で自然に作られるNOは、とても微量で、あっという間に分解されてしまう。しかも、NOが作用するのはとてもミクロな範囲である。血管壁の内側には、一層の細胞から作られている「血管内皮」がある。血管内皮の細胞が作り出すNOが、血管壁の「平滑筋細胞」に作用し、これを弛緩・拡張させる。つまり、NOは血管内皮細胞と平滑筋細胞との間を結ぶ情報伝達物質として働くのだ。
このような体内のメカニズムが元々あるために、人為的に投与したニトログリセリンから放出されるNOによっても、血管が拡張するというわけである。

欧州心臓病学会の会場そばには、最新型の心臓ペースメーカーのバルーン広告が飾られていた
さて、アルフレッド・ノーベルとニトログリセリンと狭心症にまつわる話は、ネット上で検索すると、沢山ヒットしてくる。それだけ有名な逸話ということだが、そのなかで、とても興味深いことを指摘しておられた方がいる。和歌山工業高等専門学校で工業化学科の教官を20年間経験し、現在は厚生労働省の副大臣をなさっている西博義さんという方である。
その方のコラムによると、NOは自動車の排気ガスをはじめとして大気汚染の原因となる窒素化合物類の有害物質としては一般に広く知られているものであるという。そして、1個の窒素原子と1個の酸素原子が結びついた、ごく単純な分子構造である。そんな単純な物質ですら、生物に対してどのような作用を持つのか、ごく最近まで分からなかった。一方、人間が人工的に作り出した無数の化学物質に目を向けると、急性の毒性を示すような物質以外は、ほとんど長期的・系統的な研究がなされないままであるという。
ニトログリセリンとアルフレッド・ノーベルの数奇な関係からおよそ150年、やっと人類はNOの作用の一部を明らかにすることが出来た。NOと血管拡張との関係を解明した米国の3名の研究者は1998年にノーベル医学・生理学賞を受賞しているが、NOが血管に及ぼす影響以外、たとえば神経系や免疫系への影響は、まだまだこれからの研究課題になっている。西博義さんは、NOのような単純な物質ばかりでなく、環境ホルモンをはじめとする多種多様な人工の化学物質が生体に及ぼす影響を考えると、私たちの周囲は分からないことだらけだと指摘している。

ストックホルム市庁舎から眺めた市内