

1967年茨城県生まれ。医学ライター。医療関連編集者を経て、フリーランスライターとして独立。循環器、癌全般、消化器、泌尿器、皮膚科、眼科などの医学記事を執筆。海外取材も多い。
2005-01-24 号
高野 雅典(医学ライター)
最近、大きな病気を治療するためにヒトの細胞が使われ始めている。例えば、癌患者の治療では、患者さんの血液中に含まれる免疫細胞を取り出して、その数を増加させたり、特別な機能を付加したりして再び体内に戻す免疫治療が盛んに研究されている。この方法で強化された免疫細胞は、癌細胞に対する認識能力や攻撃能力が高い細胞たちである。
また、心筋梗塞のような心臓発作を起こした人を治療する手段として、その患者さんの血液中に含まれる血管を作る能力をもった細胞を取り出し、その数を増やして心臓や冠動脈(心臓に酸素・栄養分を送る血管)に再注入する治療法も研究されている。もともと人の体は、心筋梗塞などが起きると血管内皮細胞と呼ばれる血管を作る能力をもった細胞の前駆体が増えてくることが知られている。これは、脊髄で作られる幹細胞(様々な細胞に分化する能力をもった細胞)の一種だ。ただ、その増加の程度は、心筋梗塞を起こした心臓を救えるほどではない。そこで、この前駆体を採取し、体外で人為的に増加させたあと、心臓の患部に直接注入するというのが、この治療法の原理だ。微小な血管が多数作られ、酸素や養分が欠乏して動きの鈍った心臓が実際に回復することが明らかになってきている。
このように、免疫細胞を利用した癌治療や幹細胞を利用する治療は、患者さん個人の細胞を採取して利用するため、前回までに述べた1950年代のHeLa細胞のような倫理的な問題には直結しない。ただ、個人の細胞を利用した治療法というのは、そのつど一人一人の患者さんに特製の治療細胞を作る必要があるし、費用も高額なものになってしまう。洋服に例えれば、オーダーメイドのスーツのようなものである。
実は、最近の医療の世界では「オーダーメイド医療」という標語が花盛りである。患者さん個人に適した個別の医療を提供しようという意味の言葉なのだが、現実的には、まだまだ費用や技術・制度上の問題などがあって完全な実現には至っていない。医薬品に関しても、大量生産品のなかから患者さんに適したものを選択するというのが実情だ。
体内のある物質が足りないために起きてくる病気・症状に対しては、その物質を補ってやればよい。もちろん、その物質を産生するような細胞を患者さんの体内に移入するような高度な医療が実現できるなら、それもよい。しかし、それが出来ないとしても、必要な体内物質をあらかじめ工業的に大量に作れれば、それを投与することで多くの患者さんが救われる。洋服は、必ずしもオーダーメイドでなく、大量生産の既製服でもよいわけだ。
1970年代、80年代の頃は、まさにヒト細胞由来の様々な物質を大量生産することが目標とされた。ヒト細胞は医療に役立つ生体物質の供給源として培養され、様々に利用されたのである。
HeLa細胞は、ヒト細胞の工業的利用の契機を作り出したと言える。小児麻痺の原因となるポリオウイルスを検出するためのツールとしてHeLa細胞が利用されたわけだが、この研究は、やがてサルの腎臓細胞を利用してポリオ・ワクチンを大量生産するという成果に結びついてゆく。これと似たような方法で様々なワクチンが大量生産され、多くの病気が予防・治療可能となっていったのである。70年代の中頃になると、サル細胞のようにヒト以外の種を使用すると新たなウイルスが混入する危険性があることが指摘されて、ヒト細胞が再びワクチン産生に使用されるようになった。このとき使用されるようになったのは、HeLa細胞のように癌化したヒト細胞ではなく、正常な遺伝子をもつ「ヒト二倍体細胞」と呼ばれる培養細胞である。正常細胞は、癌細胞のように無限に増殖させることはできないので工業的には不利であるが、安全性は高いと考えられた。
みなさんはインターフェロンという薬名を聞いたことがあるだろうか。インターフェロンは、本来、体内の免疫細胞が作り出す物質で、他の免疫細胞を活性化するなどの役割をもつ。少量で多くの免疫細胞の働きを調節する強力な物質なので、それを体外で量産して投与すれば、免疫を活性化して患者さんの癌を駆逐できるのではないかと期待された。実際には、癌治療にはあまり大きく貢献できなかったが、ある特定の癌には有効であることが示されているし、B型肝炎やC型肝炎の治療には広く利用されるようになっている。インターフェロンのように、少量で多くの細胞の働きを調節する能力をもつ生体物質を「サイトカイン」と呼び、現在では様々な種類のサイトカインが医薬品・研究用試薬として使用されている。これらのサイトカインを大量生産できるようになったのは、1970〜80年代のヒト細胞を利用した工業技術の発展の成果である。
ヒト細胞の利用には、もう1つ重要な流れがある。それは、1970年代の中頃に、種類の異なる細胞同士が融合する現象を日本の研究者が発見したことから始まる。当時、東北大の岡田善雄先生が発見した、その現象は、センダイウイルスという病原性のないウイルスが存在する培養液中で、種類が異なる細胞同士が融合して1つの細胞になってしまうという驚異的な現象だった。この細胞融合の技術は、のちに癌細胞と免疫細胞とを1つの細胞に融合させた「ハイブリドーマ」と呼ばれる細胞の誕生につながった。ハイブリドーマは、無限に増殖する癌細胞の性質と、病原体や異常細胞の駆除に有用な抗体を産生する免疫細胞の性質を併せ持ち、これを利用すると、ある特定の対象物のみに結合する抗体(モノクローナル抗体)を大量に得ることが出来る。モノクローナル抗体は、いわばミクロの追跡ミサイルのようなものであり、研究用では、ごく微量な蛋白質を検出することに用いられ、現在の医学・生物学研究には絶対に欠かせないものになっている。さらに、ここ数年では、このモノクローナル抗体を使って癌細胞を狙い撃ちする新薬が開発されている。日本国内でも、乳癌やリンパ腫の治療にモノクローナル抗体が使用されはじめている。
ヒト細胞は、HeLa細胞の時代の癌研究やワクチン開発に留まらず、その後、様々な生物学的・医学的研究に利用されるようになった。また、ヒト細胞や、そこから得られる遺伝子は、薬品を大量生産する工業的資源としても利用されている。さらに、薬品や医療機器の開発段階でも、それらの効果や安全性を確認するためにヒトの培養細胞が日常的に使用されている。
この状況をみると、一体、それらの細胞の供給源はどこにあるのか、HeLa細胞とそれを提供したHenrietta Lacksさんのような事態が今後起こらないと言えるのか、心配になってくる。
日本は、欧米諸国に比べると、ヒト細胞の工業的利用に関する議論が立ち後れているようである。研究目的としての利用実績は世界にひけを取らないが、いざ大量生産の工業利用となると、なかなか踏み込めない領域のようなのである。ただ、恐ろしげな領域だといって我々はノータッチ、誰かがやってくれるだろうと放っておくと、それはまた別の恐ろしさを生み出してしまう。ヒト由来のサイトカインやモノクローナル抗体などを外国製品のみに頼ることは、それが外国人の遺伝子や細胞に由来しているだけに、日本人の独特な遺伝的特徴にマッチした医療が実践できなくなる可能性をはらんでいる。そればかりではない、外国の製薬企業が利潤追求などの経済的な理由で方向転換した場合に、日本の患者が必要としている医薬品が手に入らなくなるなどの不利益を被る可能性もあるのだ。
ヒトの細胞を研究や工業に使うなどとは、本当に不気味な感じを受けるかも知れない。しかし、現実的に、僕らはワクチンによる予防接種を受け、ヒト細胞で安全性を確認した薬を飲み、大きな病気をすればヒト細胞の研究から生まれた高度な医療を受ける。まさに、ヒト細胞を利用した科学技術の時代に生きているのである。