

1967年茨城県生まれ。医学ライター。医療関連編集者を経て、フリーランスライターとして独立。循環器、癌全般、消化器、泌尿器、皮膚科、眼科などの医学記事を執筆。海外取材も多い。
2004-12-06 号
高野 雅典(医学ライター)
1980年代に突然出現し、世界を震撼させた恐怖の病気エイズ。抗生物質をはじめとして、それまでの薬では治療できず、発症後の死亡率も非常に高いことから大きな混乱を巻き起こし、悲しいことに感染者に対する差別も生んだ。
後天性免疫不全症候群(AIDS:エイズ)を引き起こす原因ウイルスがHIVであることは、みなさんも知っていると思う。70年代までの生物学の常識では、遺伝子DNAの情報はメッセンジャーRNAに転写され、リボゾームなどの働きによってその情報が蛋白質合成に使われる。そして、その逆のプロセスは存在しないというものだった。自己複製が可能なのはDNAだけであり、RNAや蛋白質が独自に増幅することはないという考えは今でも常識として定着している。
ところがHIVにはDNAがない。それなのにヒトの体内で増幅することが可能なウイルスであり、当時は、そのことだけでも大きな衝撃を与えた。HIVは、DNAではなくRNAを遺伝子として使う不思議なウイルスだった。ヒトの体内に侵入したあと、免疫系の細胞(T細胞)に取り憑き、細胞内のDNA複製機構を利用して自己を増幅させる。しかし、RNAを増幅させる機構は細胞内にはない。
実は、HIVは「逆転写酵素」と呼ばれる独自の酵素を細胞内に持ち込んで、自己のRNAからDNAを合成し、そのDNAを細胞に増幅させるという、それまで人類が知らなかった驚異的な方法で増え続けるのだった。現在、HIVのようにRNAを遺伝子として持ち、逆転写酵素を使って増幅するタイプのウイルスは、レトロウイルスと名付けられている。
HIVが人体にとって脅威となった最大の理由は、ウイルスや細菌から体を守るための「免疫機構」にダメージを与えるということだろう。建物を侵入者から守るセキュリティーシステムそのものを壊してしまうため、あらゆる入り口から悪党どもの侵入をゆるし、内部で大暴れさせる状態を作り出してしまうのだ。HIV自体はセキュリティーシステムの中心となるT細胞を殺すだけだが、HIVが増殖してセキュリティーが壊滅的状態となった段階で、帯状疱疹、結核、カボジ肉腫、カリニ肺炎、カンジダ症、トキソプラズマ脳症、サイトメガロウイルス感染症といったHIV以外のウイルス・細菌が関連するさまざまな感染症が起きてくる。
「HIV感染」と「エイズ」は言葉の意味が違うと言われる。「HIV感染」はウイルスが体内に侵入・定着することを意味している。感染の初期では、検査によってウイルスを検出できるものの、風邪のような初期症状が短期間ある以外は、なにも自覚症状はない。血液中のウイルス量も初期に急激に増加してからは、しばらく低い値になる。ただ、その期間に徐々に、血液中のCD4陽性と呼ばれるタイプのT細胞が減少していく。HIVがCD4陽性T細胞を殺してしまうからだ。CD4陽性T細胞は、他のT細胞やB細胞などの免疫細胞を活性化させる司令官の役割をする大事な細胞だ。

HIV感染症の自然経過とエイズの発症(HIV感染症の治療に関する研究会ガイドラインより改変)
HIVの量が増えるにしたがって、体内のCD4陽性T細胞は減り、体を守りきれなくなる。この段階で「日和見(ひよりみ)感染」と呼ばれる現象が起きてくる。日和見感染とは、免疫機構が弱まってしまうため、もともと体内にいた細菌・ウイルスの活動が活発化し、抑制できなることを意味している。もちろん、体外からの新たな侵入者も許してしまうことになる。免疫力によって抑制していたある種のガン細胞たちも活動を活発化させる。このようにして、日和見感染症(その種類は23種類もある)が起きてくる段階を「エイズ」という。
エイズ発症後の生存期間は、90年代初頭の頃はかなり短かった。2年間以上生存出来る可能性は20〜40%程度である。その後、薬による治療技術が向上したため、エイズ発症後2年間の生存率は80%以上になった。しかし、現在の治療はHIVを完全に除去することは出来ない。エイズ発症までの期間をなるべく先延ばしして、エイズ発症後は、生命を救うために、いろいろな感染症・ガンに対する治療努力をするしかないのが現状だ。いわゆる「エイズ特効薬」も「エイズワクチン」も存在しない。
先週も述べたように、日本におけるHIV感染者の数は急増している。体のなかのHIVの増殖を抑制する治療は医者にしか出来ないことだが、社会のなかのHIVの増殖は、一般の人々、つまり僕らが抑制することができるし、僕らがやらなければならないことと言える。
HIVには知能も意識もない。ということは、その攻撃対象は誰でもかまわない、非情に、無慈悲に、誰にでも襲いかかる。けれども、その一方で、僕ら人類が知恵を使い、感染経路を断ち、増殖を抑制すれば、やがて必ず絶滅させることができる。また、研究者らがHIVを除去できる薬を開発したり、感染を予防するワクチンを開発すれば、彼らとの戦いは急激に僕ら人類にとって有利なものとなるはずだ。