

1967年茨城県生まれ。医学ライター。医療関連編集者を経て、フリーランスライターとして独立。循環器、癌全般、消化器、泌尿器、皮膚科、眼科などの医学記事を執筆。海外取材も多い。
2004-04-26 号
高野 雅典(医学ライター)
「in silicoでの研究」・・・これは、コンピューターの中で、生命現象を研究することを意味している。「silico」とは半導体素子あるいはコンピューターを指す代名詞である。
皆さんも、テレビの科学番組などで、太陽周囲の惑星の動きや、銀河系の形成過程、気象現象、地震に対する建築物の振動などを、コンピューターでシミュレートした映像を見たことがあるだろう。これらは、それぞれの自然現象に関連する様々な物理法則、実際に測定して明らかになった数値データなどを使って、コンピューターの中に作り上げた仮想的なモデルと言うことができる。
生物学や医学の研究でも、コンピューター上のシミュレーションが活躍し始めている。これらは「in silico技術」と呼ばれており、まだ、現在では応用の初期段階であるが、これから急激に進化してゆく可能性が高い。
生命現象をコンピューターでシミュレートすることのメリットは一体何であろうか。まず、第一に研究のハイスピード化がある。コンピューターの処理速度が高まれば高まるほど、生命現象を素早く研究することができる。研究者が、研究室にこもって試験管を振って何度も同じような実験を繰り返すよりは、コンピューターで大量の実験を一気に済ませるほうが断然効率がよい。第二に研究対象の単純化・詳細な解析がしやすい。コンピューターの中での計算には不確定要素が少ない、つまり温度変化や未知の異物の混入などは論理的にないわけで、実験の精度が高めることが出来るだろうし、「一体何が起きて、こんな結果になったのか」といった疑問に対しても、数値の変化を詳しく、何度も検証して、答えを導くことができるだろう。そして第三に実験の安全性が高いこともメリットになるだろう。研究室から有害な物質が漏れるといった心配は無用である。そればかりではなく、実際の実験を行う前に、コンピューターの中で予備実験をおこなっておけば、未知の危険性を前もって察知できるだろう。
in silico技術は、遠い未来の技術ではない。すでに、新しい薬を開発するために、この技術を応用する試みがはじまっており、実際に、そのためのソフトウェアも商品化されている。例えば、癌細胞に特有なタンパク質のデータをコンピューターにインプットし、その分子構造をモデル化する。そして、このタンパク質に結合しやすい化学物質を、コンピューター上でデザインする。コンピューターの計算速度で、色々な種類の化学物質を合成しては、このタンパク質に結合しやすいかどうかを試してゆく。こんな方法で、理想に近い化学物質のデザインが決まったら、実際にこの物質を合成する。そうやって手に入れた化学物質は、癌細胞に、結合し取り込まれやすい性質を持っている。こんな風にして、癌細胞を攻撃する新しい薬剤の開発が行われるというわけだ。もちろん、それでも、まだ夢の特効薬を手に入れる段階には至っていないのだが・・・。
in silico技術には様々なタイプがあって、化学物質を合成するだけには留まらない。人間の体の一部をコンピューター上に再現して研究しようという試みも進められている。例えば、筋肉組織の動きをシミュレートする、血圧の変化をシミュレートするなどなど。ただ、これは、生命現象のごく一部を切り取ったモデルである。インプットしていない現象は再現されないわけで、それが1つの限界とも言える。全ての現象をインプットすることは、不可能に近いかも知れない。
しかし、ほんの数年前に、驚くべき発想をもって、コンピューターの中に「細胞」そのものを再現するプロジェクトを開始した人物が日本にいる。慶應義塾大学先端生命科学研究所の冨田勝先生である。
冨田先生の発想は、実に刺激的だ。遺伝子解析技術が向上してきたおかげで、1つの生物がもつ全ての遺伝子情報(これをゲノムという)をデータ化できるようになった。例えば、皆さんもご存じのように、つい最近、米国の企業がヒトのゲノムを全て解析し終わったと発表した。そこで、冨田先生は、コンピューターの中に、ある生物のゲノムの全情報をインプットして、そこから作られる全てのタンパク質を相互に作用させ、細胞内でおこる全ての代謝現象を再現しようと考えたのである。つまり、コンピューターの中で、生きている細胞をまるごとシミュレートしてしまおうという壮大な計画であり、それはE-CELL(電子化細胞)プロジェクトと名付けられた。今までのin silico技術が、生命現象のごく一部を切り取ってシミュレートしていたのに比べると、この発想はまさに人工生命を作るのに近い。E-CELLと呼ばれるプログラムは、コンピューターの中で生命活動を行い、様々な条件を与えると、何らかの反応を示すのである。
そんなことが本当に実現できるのか。冨田先生たちは、まず、500個ほどの遺伝子しかもたないマイコプラズマ菌をコンピューターの中で再現することを目標にした。実際には、マイコプラズマ菌が自己を維持するのに最低限必要な127個の遺伝子をコンピューターにインプットし、そして実際にノートブックPCの中でシミュレートしてみせたのである。
その成功が、やがて、世界の学会で賞賛されるまでの過程を描いた冨田先生自身の手記がWeb上で公開されている。その感動的な手記を、みなさんにも、是非、読んで頂きたい。(僕のコラムなんかより数倍おもしろい!!)
冨田先生の手記「細胞まるごとシミュレーション:電子化細胞実現までの道のり」
(http://web.sfc.keio.ac.jp/~mt/mt-lab/mita-ecell.html )
現在では、ヒトの赤血球や、脳神経細胞を、E-CELLシステムを使って再現することに成功しているという。そして、E-CELLはフリーウエアとして公開されており、誰でも使ってみることが出来る。また、つい最近、ソフトウェアをインストールしなくても、Web経由でE-CELLを使えるシステムが公開された。ただ、現状のE-CELLは、パソコン上で細胞そのものの姿を立体的に見るというようなことはまだ出来ない。現実には、味気ない数値の入出力ためのウィンドウが並んでいるだけだ。
サーバークライアント型E-CELLの公開に関して(理化学研究所)
http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2004/040405/index.html
将来的には、コンピューターの中の細胞(E-CELL)に新しい薬を投与して、その薬がどんな影響を及ぼすのか、細胞がどんな反応を示すのか、といったことを研究できるようなツールにも進化すると期待されている。