

京都造形芸術大学教授。映画評論家。NPO教育支援協会チーフ・コーディネーター。「『子どものため』は大人の身勝手。子どもは人質ではない。いますぐできる『学校を楽しくする方法』を教えます」と、文部官僚時代より教育問題に刺激的・積極的に発言する。2006年11月文部科学省を退職。
2002-12-08 号
寺脇 研(NPO教育支援協会チーフ・コーディネーター)
では、なぜ不便をなくすための努力が必要なのか。自分は不便じゃない人たちが不便を感じている人たちのためにバリアフリーを進めるのは何のためか、という問題を、祥豊小学校五年生の子どもたちと考えてみました。
かわいそうだから、ではない。不便を解消するためだ。だとすれば、しかし、「かわいそう」ではなく対等の立場である人のために、なぜバリアフリー化の努力をしなければならないのか、という疑問が出てきます。対等なら、実際に不便な人自身が解決するのが原則じゃないか。なぜ、不便を感じてない側までがやらなければいけないのか、と。
もちろん、そんな疑問にとらわれるのはわれわれ大人の発想。子どもたちは、素直な気持でバリアフリーの実現を願っていますから、「なぜ?」なんて考えてもいません。ある男の子はこう発表しました。「バリアフリーをめざすといっても、ぼくはまだ五年生なのでたいした力はありません」。でも、と彼は続けました。「でも、自分にできる全力を尽くしたい」と。
大人たちが、忙しいからとか、生活がたいへんだからとか、さまざまな言い訳を並べて世の中の問題と直に向き合うことから逃げているのに比べて、なんとすばらしい考え方でしょうか。大人の側としては、恥ずかしい限りです。
ただ、そうした子どもたちの素直な気持はすばらしいとして、あえてわたしは「なぜ?」と問いたいのです。それは、どんなことであろうと常に「なぜ?」を考えてみるのはとてもだいじだと思うからです。「なぜ?」を納得した上でバリアフリーをめざすのだったら、もっといいに決まっているでしょう。
身体が不自由な人たちは、バリアがあるために、外出して社会のさまざまな活動に参加することが難しい状態にあります。その状態を解消してあげるためにバリアフリーにする、という考え方だけでいいのだろうか。
そこでわたしは、別の問いを投げかけました。「わたしはなぜ、遠い東京からここまで来て、皆さんと一緒に授業をしているのでしょうか?」。担任の先生と違って授業をする義務はないのに、わざわざ新幹線に乗って祥豊小学校へ来るわけは?