

京都造形芸術大学教授。映画評論家。NPO教育支援協会チーフ・コーディネーター。「『子どものため』は大人の身勝手。子どもは人質ではない。いますぐできる『学校を楽しくする方法』を教えます」と、文部官僚時代より教育問題に刺激的・積極的に発言する。2006年11月文部科学省を退職。
2002-12-01 号
寺脇 研(NPO教育支援協会チーフ・コーディネーター)
子どもたちの発表は、それぞれが考えたバリアフリー化への提案が主となっていました。どれも、真剣に考えたすばらしいものです。そのことに感心したのですが、わたしは敢えて新しい問題提起をさせてもらいました。
目や耳の不自由な人を助けるのは「かわいそう」だからなのだろうか?
この問いかけは五年生にはちょっと難しいかとも思いましたが、バリアフリーを考えるのにバリアについても意識した彼らです。わかってくれるかもしれない。
まず、古典落語の『一眼国』の話をしました。珍しい見世物を探している見世物小屋の主人が一つ目小僧を目撃したという情報を得て捕まえに行くのですが、逆に捕まってしまう。実はそこは一つ目の人ばかりいる国で、二つ目の人間は珍しい!と主人の方が見世物にされてしまうオチになっています。ひとりひとりの在り方に違いがあるとき、どちらが正常でどちらが異常とは一概に決めつけられない。珍しがられるのは、あくまで相対的な問題で、その集団の中で数が多いか少ないかによって左右されるだけのことです。
また、江戸時代の有名な学者で盲人の塙保己一の逸話、暗い夜に強風で提灯の灯が消えパニックになった人たちを尻目にすたすた歩き「目の見える人は不便だね」と言ったという。稀な場面ではありますが、目の不自由な人の方が便利なこともあったりします。
要は、かわいそうだからではなくて不便だからバリアをなくすのです。そして、常に特定の人たちだけが不便なのではない。場合場合によって不利をこうむる立場は流動化します。たしかに目の不自由な人が不利な場合は多いけれど、必ずしもすべてにおいてそうだとは限らない。誰かがかわいそうだから、ではなくて不便だからその不利を解消しようというのがバリアフリーの目的なのだと思います。
外国に旅行したことのある子がいたので、いろんな表示が読めたか訊くと、英語ばかりで読めなかったと言う。そう、点字の表示がないために目の不自由な人が不便なのと同じように、日本語の表示がないときみたちだって不便だ。そして逆に、京都に来た外国人は日本語の表示しかないと困る。誰もが、バリアフリーを必要とする場合を経験し得るのです。
つまり、バリアフリーに「してあげる」だけの立場の人なんかいないし、同じようにバリアフリーに「してもらう」だけの立場もありません。
バリアとバリアフリーについて考えるというのは、なかなか奥が深いのです。