2012-09-14 号
多賀谷 浩子(フリーランス・ライター)
抜けるような青空。高くて白い雲。
スクリーンに映る空気感だけで暑い土地だとわかる
心躍らす陽射しと、さわやかな風――
「ミャーク」とは「宮古島」のこと。
同じく「現世」という意味もあるという。
この映画は、ミュージシャンの久保田麻琴が宮古島を訪れ、
現地の人たちの唄と暮らしを追ったドキュメンタリー。
冒頭から音の響きが心地よく、映画全体の音質が豊かで
古くから伝わる宮古の人々の唄や語りが、きもちのよいリズムで繋がっていく。
思わず体が動いてしまう、エッジの効いたリズム。
三線(さんしん)って、こんなにかっこよかったっけ?と思う。
宮古の土地に根を下ろして生きてきた
人々になじんだ唄のかっこよさに、ほれぼれとする。
そして、その唄が生まれる暮らしに、人間の原点を見るような思いがする。
映画によると、
寛永14年から明治36年に至る、実に226年間。
薩摩の支配下にあった琉球によって
宮古・八重山諸島には厳しい「人頭税」が敷かれており、
人々は過酷な労働を強いられていたという。
世界で奴隷制がはじまり、その過酷な労働の日々を
生き抜くためにブルースが生まれたように、
ここ宮古に古くから伝わる唄にも、ブルースに似た
シリアスでエッジの強い響きがあると久保田はいう。
自然の中で長きにわたって育まれた豊かな表情のおばあたちが
スクリーンにあらわれては唄う、古くから伝わる宮古の唄。
そこには、自分たちが身を置いている大自然への
敬愛がたっぷりと語られていて、胸を打つ。
ちょうど大学時代に専攻していた
モンゴルの大草原で唄われる唄を思い出した。
19歳から20歳になる時期に、360度見渡す限り何もない
大草原で暮らした経験というのは、私にとって本当に大きなもので、
もしも大風が吹いたら、家ごと吹き飛ばされるかもしれない
大自然の中での暮らしは、人間が自然の一部なのだということを実感させてくれた。
遠くの川や井戸から重たい思いをして
汲んできた限りある水を大切に使い、
一緒に生きてきた家畜の肉をありがたくいただき、
その山羊や羊の、皮も骨も腸も一切無駄にすることなく、
(血の一滴ですら、大地にこぼさない)
自分の手で皮は袋に、骨は子どもたちが遊ぶおはじきに、
腸はきれいに洗って、腸詰め(ソーセージ)にする。
大自然の中に根を下ろして暮らしていると、
自分にもしっかり根っこができたように落ち着く。
自然の一部として、
毎日の生活が自然の中で家畜とともに循環し、
それ以上でも、それ以下でもない、自分の生活がそこにある。
都会に暮らすと、この根っこがなくなるから、
人間は人と何かを比べたり、自分のものじゃないものまで欲したりして、迷ってしまうのだと思う。
そんな、それ以上でも、それ以下でもない、
人間本来の環境に生きていると、
大自然を敬う唄は、おのずと心から生まれる。
その「敬う」は、親や先生から「そうしなさい」と
教えられた正しい行動というのではなく、
もうほとんど「愛している」という感じで、
モンゴルの人たちが故郷の山を唄う唄の歌詞を聞いていると、
胸がいっぱいになったりする。
この映画を見ていて、そのことを思い出した。
豊穣やつつがない暮らしを願う
昔から繰り返されてきた祭祀が
宮古では今も自然に暮らしの中に溶け込み、
神様と交信する唄が、
その役割の女性たちによって唄われる。
大自然への畏敬の念。
自然の一部として循環している人々の暮らし。
そんな宮古でさえ、川を見つめながらある女性が言う。
「昔のおもかげ、昔の自然は、今はもうないねぇ」。
この『スケッチ・オブ・ミャーク』、製作から監督、撮影、録音、編集までひとりで手がけたのは、フォークシンガー・高田渡が出演する映画『吉祥寺夢影』(91)を手がけた大西功一。
洗練された映像と美しい音質からあふれ出す、この映画そのものが音楽。おばあたちが唄う古謡の響きが、改めて胸に響く人も多いのではないかと思う。
1日の終わりに、感謝して祈る。
大自然の中では自然に生まれるそんなきもちを
都会の暮らしの中で持ち続けることは難しい。
環境のこと、原発のことを考える今。
人間の原点に立ち返る、自然とのあるべき姿が、
唄とともにこの映画の中にあふれている。
つきぬける、晴天と風のブルース。
きもちのよい音に身を委ねて―
唄は祈りなのだということ、あらためて思わされる。
15日より公開。
公式サイト:http://sketchesofmyahk.com/