2007-08-15 号
多賀谷 浩子(フリーランス・ライター)
ジャ・ジャンクーの映画を観ていると、とても幸福な気分になる。
おそらく、それは「間」のせいだろう。
その場の空気をていねいに掬い取る、ゆっくりとした「間」。
これは彼の映画に欠かせない
キャメラマン、ユー・リクウァイの存在も大きい。
ユー・リクウァイといえば、忘れられない出来事がある。
数年前の東京フィルメックスで取材をさせてもらったのだが、さあ写真を撮りましょうとなった際、どうも納得いく場所がない。そして時間もあまりない。そんな状況下でも、ユーさんは決して妥協せず、限られたスペースの中で、もっともフォトジェニックな場所を見事に見つけてきてくれた。
『長江哀歌』の中でも、そんな彼のカメラは、風通しのよい長江沿いの暮らしをゆっくり、ゆっくりと追う。
この「間」は、人間にとっていちばん自然なテンポなのかもしれないと思う。
どう自然かといえば、
たとえば夏のある日、家から外に出るとする。
その瞬間、目には陽光に照らされ、くっきりとした夏の風景が飛び込み、耳には蝉の鳴き声が響く。そして、嗅覚は陽射しを浴びた土と草の匂いをとらえ、何より肌が湿度のはりつく夏の空気を感じ取る。外に出たその一瞬だけで、体が受け止めきれないくらいの「夏」が、ラッシュのように五感に押し寄せる。そのすべてを心行くまで味わうには、このくらいゆっくりとした「間」がどうしても必要になる。
学生の頃は時間があったから、
このくらいの「間」で季節の変化を味わうことができた。
季節が変わると、湿度も変化する。
それによって遠くを走る電車の音の伝わり方が異なることも楽しめた。
でも、仕事をしていると、なかなか心ゆくまでそういうことを味わっているわけにはいかないシーンもままあって、たぶんジャ・ジャンクーの映画を観ている時の幸福感は、その頃の味わうままに任せる「間」が返ってくるからなのかもしれないと思う。
味わうままに任せる「間」というと、このコーナーでも以前とりあげた
『エレニの旅』(2004)を手がけたギリシャの監督、テオ・アンゲロプロスの作品を思い出す。あの「間」もうっとりするほど心地いい。でも、アンゲロプロスの「間」の方がより重みと密度を感じさせ、ジャ・ジャンクーの「間」の方が、より風通しがいい。アンゲロプロスは1936年生まれ、ジャ・ジャンクーは1970年生まれ。ジャ・ジャンクーの「間」は、より日常に近い温度で、いまを呼吸している。
以前、トークショーで、ジャ・ジャンクーは、ロケハン(ロケーション・ハンティング:撮影場所を探しに行くこと)をとても大切にしていることを話していた。その土地が発するものを受け取る、それをフィルムに焼き付けるのだと。
現代を生きる私たち…といっても色々な人がいるだろうから、
たとえば、東京で人々が行き交うスピードは、
いきものの視点から言えば、かなり速い。
この速さだと、目に見えるものに向かい合うことで精一杯。
ジャ・ジャンクーが大切にしている、土地が発するもの。
目には見えない、でも彼の映画には映っているもの。
これは、やはり、ゆっくりと味わうままに任せる「間」で生きている時にしか感じられないものなのだと思う。

『長江哀歌』の原題は、『山峡好人』。
英語の原題もすばらしく、“STILL LIFE”という。
日々、急速に変わり行く中国のいまをとらえながら、
時代が変わっても変わることのない人々の営み。
その美しさをあまりに幸福な映像でとらえている。
昨年のヴェネツィア国際映画祭でサプライズ上映され、
最高賞にあたる金獅子賞を受賞した。
その後、東京フィルメックスでもオープニング作品として上映されたのは、
このコーナーでもご紹介したとおり。
そもそも、この映画はジャ・ジャンクーが「山峡ダム」を舞台に手がけていた別のドキュメンタリー映画を撮る過程で、生まれたものだという。
ドキュメンタリーではおさまりきらない、
その時、そこにしかない日常のきらめきが、あまりにもいとおしくこの映画には漂っている。

この映画のはじめの方のワンシーン。
きっと夏のある午後。
船上の机の上に何気なく置かれた物たちが、とても幸福に映る。
いま、この風とこの海とこの光…ここにいる自分がとらえているこの美しさを残すことができたら…そう思うことは、人間共通の望み。だから、私たちは写真を撮ったり、絵を描いたりする。でも、その感覚をそのまま再現することはとても難しい。
ジャ・ジャンクーの映画は、そんな永遠の一瞬を残すことに成功している。
だから、あまりにもうっとりしながら、観客はそれを観ることになる。
1作品撮るごとに進化してきたジャ・ジャンクーの最新作。
同時代に生まれてこられて、よかったなと思う。
18日より公開。
公式サイト:http://www.bitters.co.jp/choukou/