2004-03-04 号
多賀谷 浩子(フリーランス・ライター)
「人間と機械の境界線が限りなく曖昧になった時代。
ヒトは、人であることを忘れた」
3月6日から公開になる映画『イノセンス』の、あるレンタルビデオに収録されていた予告映像を見て、予告の中に登場するこの言葉がとても引っかかっていました。
私自身の生活を振り返っても、こうしてパソコンに向かう時間が増えて、その通りに動かなくてはならないスケジュールがあって、忙しいときになると日々がその繰り返しになる。そんな生活を送る自分を、ふと機械みたいだなあ…と思ったりすることがあります。頭で考えなくてはならないことに追われて、頭で考えることに慣れて、自分で勝手に袋小路にはまったり…「脳」化しているなあ…と思うのです。五感や実感で感じることが、日常の中でとても希薄になっていっている。忙しいと、ご飯さえゆっくり味わうことも、ままならない…。
そんなとき、一緒に暮らしている犬を見ると、彼は眠りたいときに眠り、本当にきもちよさそうに眠り、いつも心のままの表情をしている。いつも、自分がいちばんきもちのよい体勢でそこにいる。なんだか、ホっとします。

映画『イノセンス』より
(C)2004士郎正宗/講談社・IG , ITNDDTD
映画『イノセンス』からも、それに近いことを感じました。その思いを形ににしたビジュアルと構成が、ものすごい。冒頭の映像から、圧倒されてしまいました。こんな映像を描くことができるのだ…と。濃密な映像が、ぎっしりと詰まっています。
『イノセンス』の舞台は、近未来の2032年。人間とともに、サイボーグとロボットが共存する社会。張り巡らされたネットワークの中で、人々はパソコンに触れずともデジタルなコミュニケーションができるようになっています。限りなく本物に近いバーチャルな視体験…どれが実体でどれがイメージなのか、その境がとても曖昧な社会。嗅覚や感触が退化していきそうな世界。この映画で描かれている、その濃密な息苦しさは、現代人の生活の「生き苦しさ」に通じるような気がします。
この映画で印象的なのは、台詞。哲学書を読んでいるかのごとく、日常会話とかけ離れた「ムヅカシイ言葉」がポンポン飛び出します。押井守監督の頭の中が、そのまま映画に映し出されたような台詞の世界。そこには禅の思想を思わせる、仏教思想的・哲学的な人生観が漂います。フランスの巨匠ゴダールの作品などにもそういった面があると思うのですが、「わかろうとすると、わからない。でも、ただありのまま受け止めていると、何かをつかめる」そんな映画のように思います。『イノセンス』の序盤で、「理解ということ自体、人間の欲望なんだ」というような台詞が登場します。「わかろう」っていうこと自体、傲慢なのかも…と、ふと思いました。すぐそばにいる相手の考えも、自分の考えすら、たぶん正確に「わかる」ことなんて不可能なこと。また、どんなに科学とテクノロジーが進化しようとも、人間が「わかる」ことなんてできない…。
アニメの枠組を超えて、現代の日本社会の中、人間のあり方を問う、とても普遍的な作品。日本から、こういうパワフルな作品が登場することが、素晴らしいなと思いました。