1951年広島生まれ。81年「さようなら、ギャングたち」が群像新人長篇小説賞優秀作 に。 88年『優雅で感傷的な日本野球』(河出書房新社)で第一回三島由紀夫賞を、 2002年『日本文学盛衰史』(講談社)で伊藤整文学賞を受賞。
2010-07-04 号
高橋 源一郎(作家)
ワールドカップで、日本代表チームは戦前の予想とは違って大健闘。そのせいだろうか、日々、応援のボルテージは上がっていった。予選リーグの第3戦の対デンマーク戦は、午前3時半開始なのに、最高視聴率が40%超え! ほんとに、そんなに、日本人は、サッカーが好きなのか。だったら、Jリーグにもっと観客が入るよね。だから、日本人はサッカーが好きなのではなく、ワールドカップが好きなんだと思う。ワールドカップに出る日本チーム、というものが。
不思議なのは、この、おそらくナショナリズム的といっていい熱狂の中心にいるのが、「右」の人たちというより、「右」とも「左」とも関係ない若者だということだ。ワールドカップの夜には、渋谷が厳戒体制になる。若者たちが日本代表のブルーのユニフォームに身を包んで、渋谷に集まるからだ。そして「ニッポン!」と連呼する。そういえば、日韓共同主催のワールドカップの時も、渋谷は「青の炎」で燃え上がっていた。いったいなぜ、ワールドカップと渋谷が結びつくのだろうか。
ぼく自身は、オリンピックのような、国家を背負って戦うスポーツの祭典は好まない。だから、オリンピック期間中は、ほとんどテレビを見ないし、日本選手を応援することもない。ワールドカップも同じ、といいたいが、実のところ、少々違う。それは、サッカーというスポーツの持つ、不思議な楽しさのせいかもしれない。あれは、要するに、玉蹴りなのだ。子どもたちがやってることがそのまま洗練されていったものだろう。
確かに、ワールドカップでは、参加国の数だけのナショナリズムが沸騰する。けれど、それは世界水準のナショナリズム、なんというか、カタカナのナショリズムのような気がする。だから、応援する若者たちも「日本!」ではなく「ニッポン!」とコールする。そこで叫ばれているのは、かつてナショナリズムの対象としての「日本」ではない。彼らが
応援している「ニッポン」は、郷愁の源でも、畏怖すべき対象でも、統合の象徴でもない。確かに、共同体的なものではあるけれど、なんというか、もうちょっと、和やかなものだ。それが、ほんとうはどういうもので、もしかしたら、少しずつ変化していって、おかしなものになるのか、それとも、素晴らしいものになるのか、ぼくは、真剣に見つめていきたいと思っている。