1951年広島生まれ。81年「さようなら、ギャングたち」が群像新人長篇小説賞優秀作 に。 88年『優雅で感傷的な日本野球』(河出書房新社)で第一回三島由紀夫賞を、 2002年『日本文学盛衰史』(講談社)で伊藤整文学賞を受賞。
2010-02-13 号
高橋 源一郎(作家)
twitterを開始する人間が周りでも増えている。なんとなく面白そうだから、という理由が多い。でも、どんなことでも、考えるより、とりあえずやってみてから考えるのが正しいのだ。最初は、それで十分。というわけで、ぼくも、時々、つぶやいているのだが、わかってきたことが、いくつかある。
まずは、
・当たり前だけれど、考えすぎていると、なにもつぶやけない。まとまった考えを、つぶやこうと思っても、140字の壁がある。「つぶやき」から「つぶやき」へと、渡り歩きながら、長考(長呟?)にはげむ人もいるし、ずっと「つぶやき」のまま、つまり断片のまま、果てしなく、「つぶやき」を垂れ流し続けている人もいる。前者は、本来、ひと繋がりの思考の流れを、分けてしまうので、ちょっと、読みにくいし、後者は、正直にいって、だらしない。
このあたりは、前回も書いたかもしれない。今回、気づいたのは、もしかしたら、もう少し本質的なことだ。それは、
・twitterとふつうの文章とは向きが逆だ、ということ。
twitterを知らない人は、なんのことだかわからないかもしれないが、twitterをやっている人は、ぴんと来るだろう。当たり前のことだが、twitterは一種のブログ、というか書き込み、あるいはチャットの一種でもあるので、最新のものが、トップに来る。並べてみると、最初のものがいちばん新しく、下へ行くほど、過去のものになる。えっ、そんな当たり前のことが、なに、といわれるかもしれないが、これは実はとても重要なことなのかもしれない。たとえば、ぼくは、小説の中にtwitter中の「つぶやき」を引用してみようとした。とすると、妙なことが起こる。小説の文章は(縦書きなので)右から左へ進んでゆく。その中で(縦書きに変更されて)引用されている「つぶやき」は、左から右へと順に流れてゆく。時間の向きが、正反対なのだ。それは、過去を前提として、それがなければ、現在(の文章)が存在しないことになっている、通常の散文と違い、twitterでは、過去(のつぶやき)は、消え去ってしまうことが前提になっているからだ。いつも「現在」しかない文章、それがtwitterの「つぶやき」の特徴なのである。
・ もう一つは、twitterの「つぶやき」を見ていると、如何に、人間が勝手に、ばらばらに生きているのかが、わかることだ。それもまた、指摘する必要もない当たり前のことなのに、自分のタイムライン上に並んだ人たちが勝手にそれぞれの世界について呟いているのを見ると、コミュニケーションなんてものは、ほんとうは奇跡的なものなのかもと思ってしまうのだ。